フラハティ

フォーリング・ダウンのフラハティのレビュー・感想・評価

フォーリング・ダウン(1993年製作の映画)
3.7
男はただ家に帰りたいだけだった。
だが、彼の怒りは収まらない。


真夏の工事渋滞。
全てが混沌とした場所。
騒ぐバスの子供たち。
後ろから鳴らされるクラクション。
ミラー越しに覗く女。
視線を送る少女。
クーラーが止まり、ハエが耳元で騒ぎ立てる。
追い出そうとするが窓は壊れて空くことはない。
そんな車に乗っていたメガネの男。
男は車を降り、「家へ帰る!」と茂みの中へ歩いていった。
男の名はウィリアムフォスター。
彼は早く家に帰りたかった。ただそれだけだ。

次々と彼を襲う理不尽な出来事や事件。
そんなひとつひとつに憤りを感じ、怒りを吐き出す。
そんなキレんでもいいやないかと観客は思いながらも、ウィリアムはおそらく一生分の怒りをぶちまける。


本作はただの怒れるサイコパスを描きたかったわけではなく、"病んでいるアメリカ"を描いている。
いつも車で通りすぎるだけの場所は、多くの人種が住んでいる地域。
アメリカはそんな部分に対して、見てみぬふりをしている。
ウィリアムは渋滞により、普段は足を運ばない場所へと歩みを進めることとなる。
踏み入れた場所こそ、"病んだアメリカ"の一部であり、誰もが車で通りすぎるように見てみぬふりをしているのだ。

怒りをぶちまけるウィリアムは、国のために生きていた男。
全ては国のために、誇り高きアメリカのために、どの国にも負けないアメリカこそ正義なのだと。
だがそんな幻想はいつしか醒める。
自分が信じていたアメリカとはこんな国であった。
自分がしたことは讃えられることなどなく、用が済めば捨てられる。
俺は何のために、この国のために尽くしていたのか。


社会の出来事に対し、誰もが感じる怒り。
物の値段、失業、人種差別、性差別、貧富の差…。
どこにでもあることなのに、いつしかそれはしょうがないこと、そして無くなることはないことと、どこかで諦めを感じている。
そんな社会的な問題に対して対応をすべきは国であるのに、そんな部分を見てみぬふりをしている。
俺がおかしいわけじゃない。俺の怒りは、誰もが感じる怒りなのだ。

ウィリアムと対を成すように、平穏な退職の日を迎えようとしていた警官がいる。男の名はプレンダガスト。
彼はウィリアムを追うこととなる。
このプレンダガストの存在は非常に物語の要となり、ウィリアムと対照的なことにも意味がある。


最初のうちは、怒るウィリアムの姿はどこか清々しく、面白くもあるのだが、次々とエスカレートしていく行動を前に、その異常さを感じることとなる。

だが本作についてはちょっと惜しい。
この伝えたいメッセージは分かるんだけど、それを無理矢理詰め込みすぎな気がする。
ウィリアムがキレる理由が、そのメッセージ性に関連したことばかりなので、些細なことに対してもそこまでキレるか?って思ってしまう。
そして結局のところ、観客が彼のことをただのサイコパスと捉えて終わらせてしまうっていう可能性もあるんだよね。
コメディとしてだったら、この展開は面白いで済むんだけど、後半になっていくにつれてちょっと流石に無理があるだろうとは思ってしまう。
いや、それは違うだろってどうしても感じてしまうところもある。
彼の動機付けとメッセージ性を無理矢理繋げ合わせた感が、うーんって感じではあったね。


で、この部分は惜しいってだけであって、作品としては結構面白い。
なかなか脚本が通らなかったみたいなのは、メッセージ性が直接的すぎるって部分が大きいんだろうね。
特に人種差別の部分については、オブラートに包んだ作品とか、史実を基にした作品が多いなかで、結構ダイレクトにやってくれている。
でも当時は、この風潮はまだ完全に払拭しきれていないだろうから、実際にこんな感じでもあったんだろうと思ってしまう。

劇中の怒れるウィリアムの姿よりも、ラストのウィリアムの姿のほうがとてつもなく印象に残る。
ふっと現実を突きつけられる。
ビデオのシーンは胸にくるものがあるよ。
だが結末はあれでよかったのか。
そこも不満だな。笑


正しさとはどこだ。
狂気とは俺のことか?
世の中の間違いじゃないか?
フラハティ

フラハティ