フラハティ

サクリファイスのフラハティのレビュー・感想・評価

サクリファイス(1986年製作の映画)
4.3
希望と確信をもって。


A.タルコフスキーの遺作となった『サクリファイス』は、敬愛するベルイマンのスタッフのもと、ベルイマンの祖国スウェーデンで撮影された。
内的な作品から段々と世界と繋がっていくタルコフスキー。当初の自分をどう救っていくかから、世界をいかにして救うか?これが最大のテーマとして亡命後は作品を撮り続けた。
本作の前にタルコフスキーは末期の肺癌が判明し、この作品をもって生涯を終えた。本作は息子に捧げられている。


核による世界大戦で世界の終末を向かえる。
我が人生を振り返ったとき、愛する家族はいるが後悔をしている。
何もかもが満たされているようだが、私の心は満たされていない。
俳優としての人生は、別の誰かの人生を演じることであり、真実のなかに私という存在は曖昧模糊としている。
どこまでも人生の目的を見失ってしまい、本質的な生き方が見えない。
だから私は待ち続けるし、待つことしかできない。

本筋は従来作品より非常に見えやすいが、宗教色が結構強い。そして従来よりも語りが多いように思うし、ベルイマンを意識してか室内のシーンが多く、そこがあまり好きではないところ。好きなんだけど。
マリアとの~に関しては、宗教的な意味合いがあるようだからなんでそうなった?的な疑問は拭えない。
宗教色の強さで連想されたのは、ドライヤーの『奇跡』である。
ニーチェが引き合いに出されていたが、この哲学さに加え、全体的な印象としては多様な宗教感が折り重なったようでもあった。
たぶんタルコフスキー自身、本作で遺作となることがわかり、メッセージを詰め込みたかったのではないかと個人的に思っている。
実際タルコフスキーみたいな考え方をした人こそ救われていくべき世界を目指すもんなんだけどとも感じた。


物質的進歩と精神的進歩は調和することはなく、この文明社会は病んでいる。
何もかも発展させていくことが正しいことであるならば、精神的進歩はどこに見いだすことができるのか。
確かに物質的進歩が起こったとして、人々はその物質を正当に扱えるのかというのには疑問がはらむ。
信仰心が薄れていくのも、物質に毒されていき健全な精神性を蝕まれていくからに他ならないからである。
誰もが自己主張をしまくっても世界は平和にはならない。誰かが犠牲となることで世界は救済される。
世界をもってしての正常性と異常性は、一体どの視点をもっての境界なんだろうか?

本作でオーストラリアと日本が顕著に現れるが、本作のキーとなる核による世界戦争において、この二国は核を保有していない。
対してタルコフスキーの出身のロシア(ソ連)は核を保有しており、現在では戦争も行われている。
愚かな人間が行う戦争は、我らの犠牲で救われるのではないか。
科学技術が発展しても、人々は善いことには使わない。愚かであるから、己の利益のためだけに世界を滅ぼそうとするのである。
でも最後には希望を描くんだよね。これがまたタルコフスキーっぽい。

他作品と比較しても本作はタイトルのように“自己犠牲”が現れており、タルコフスキーの観念が反映されている。
『ストーカー』のほうが好きなのは、恐らくだがソ連の検閲下で苦しみながら、どうしても作り上げたいという感情を感じたからなのかなぁ。本作も凄い作品だが、宗教色の強さが拭えず身近に感じられていない部分が大きいと思う。命を懸けながら製作された本作のメッセージは非常に強いため、シンパシーを感じればより優れた作品と感じられるかも。


枯木に水をやり続ければ、いつかは花が咲くかもしれない。
無意味とも思えることでも、我々は善いことをし続けることが必要ではないのか。
そう、これはタルコフスキーが世界に向けた遺言。
世界はまだ望まれるべき姿ではないが、私は生き続けるしかない。これからの未来のためにも。
フラハティ

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