フラハティ

ゆきゆきて、神軍のフラハティのレビュー・感想・評価

ゆきゆきて、神軍(1987年製作の映画)
4.2
田中角栄を殺すために記す


冒頭から↑の表記が表れ、硬直した。
久しぶりにどストレートでやばい文言を観たからだ。
アナーキストの奥崎謙三というやばいやつが戦争中にあったある事件を追うため、過去の戦地の“仲間たち”を訪問することとなるドキュメンタリー。
監督は原一男で、企画は今村昌平とのことだった。
今村昌平好きそうだよなぁこんな題材と思っていたが、まんまで笑った。

日本国が選択した戦争という道。
数多の地獄を生み出した戦争は、今や記憶に遺している人々も少なくなってきている。
ある人間は黙り、ある人間は生きるために人を喰らい、ある人間は人を撃ち、ある人間は命を落とす。
一番被害を受けたのは生き残った人たちなのだ。
忌まわしき記憶を誰にも語ることはできず、何とか平凡な暮らしの中で自身の過去を弔っている。

奥崎謙三という人間は本当にやばい。
田中角栄を殺すというカードを貼り付け、耳なし芳一ばりに字を書き込んだ車で走り回る。
不動産の人間を殺害し、昭和天皇にパチンコ玉を打ち込み、田中角栄への殺人予告等で前科持ちである。
本作でも元兵士に殴りかかり、自分で警察を呼ぶという行動をとる。
自分の意見が通らなければ、相手に執拗に意見を通すし、通すまで帰らない。
自分の正義を振りかざし、相手の意見を聞き入れない様子は全くもって恐ろしさを感じるが、彼は彼なりに自身のロジックでこの世界を問いているのだ。
意味のある暴力であれば許されると講釈を垂れる奥崎を、真っ向から否定できないのが本作の恐ろしさであり、熱量そのもの。


しかし一番衝撃を受けたのは本作を観終わってから見た、公式サイトの原一男監督の談話だった。以下。
“奥崎さんは、戦場で起きた事件なんかに興味はなかったのだ。「戦後36年経った今、戦争時の話を映画にしても誰も興味を持ってくれませんよ」と言っていた。”
“「元兵士たちを訪ねてみてください。間違いなく、何かがありますから」と説得する私に、ほとんど関心ないが、そこまで原さんがおっしゃるなら、いいですよ、と渋々OKしてくれたのだ。”
なんと本作の題材に関しては、奥崎からの提案ではなかったところだ。
今まで俺は何を見せられていたのか?
奥崎の本心は一体どこに存在していたのだろうか?
確かに思い返してみれば、元衛生兵の話を聞いているとき、奥崎が前に出ることができなかったシーンがあり、そこが明らかな分岐点のように感じた。
興味ないのか?と。
この談話を見たときに感じたのは、奥崎はナチュラルな思考を過剰に表現したがったのではないかということ。
つまり自己顕示欲が異様に強い。
本当は戦争の真相などどうでもよく、自分の正しさとか強さを誇示させたいだけではなかったのかと。
山田氏に面会したときの発言とかやばいと思うよ。
この発言から、奥崎の戦地での悲惨さは山田氏に及んでいないと感じたよ。別に奥崎を批判しているわけではなく、同じ戦争経験者でも感じる規模の違いはあるだろうってこと。
奥崎も被害者ではあるんだろうが、僕は好きでもなければ尊敬もできない。
ただの自己満足で終わっている感が非常に強いのだ。


いまだに答えを見いだせないまま、奥崎謙三はこの世を去っていた。
奥崎謙三は本当にやばいやつなだけだったのかもしれない。
戦争体験によって、そのやばさが天皇や日本国家批判に繋がっている。
戦争体験がなければ、彼の批判姿勢に戦争事実が組み込まれることはなく、カルト的な存在として疎まれていただけに留まっていたのかもしれない。
ただ本作の熱量は確かに奥崎謙三という人間そのものが宿っており、一直線に自身の意見を突き通す強さは目を見張るものがある。
彼が戦死者遺族に向けた涙は、心からの涙であると思う。
戦争についてを語る映画ではないのに、戦争の被害を過去の記憶から、現代に至るまで続いていることを鮮明に記した本作は、原一男の思惑とは違った着地点を見たのだろうと思う。
こういった点に関しては、本作の魅力ではあるだろうし、撮り方とかも結構独特で面白味はあった。

戦争がなければ、奥崎謙三という人間はいなかっただろうし、ここまで観客である僕らの心をえぐってくることもなかったのだ。
戦争が生み出した悲劇というのはその時代だけではなく、新しい世代にも繋がっている。
現代の世界との繋がりは、何百年の歴史の上で出来上がっているのだ。

ただはっきりと断言しておきたいのは、奥崎謙三という人間が必ずしも正義ではないということ。
誰しも完璧な正義はあり得ないからだ。
誰も正義ではないからね。
そこを勘違いしちゃいけない。


関係ないので年末のご挨拶はコメントネタバレにて…。
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