フラハティ

バーニング 劇場版のフラハティのレビュー・感想・評価

バーニング 劇場版(2018年製作の映画)
4.3
僕の心は燃え続ける。


既に決まった人生に生まれ、数多にも分かれる道で出会う。
忍び寄る燃え盛る情熱は、心の奥で叫び続けながら、私の人生を明るく照らしてくれることはない。
満たされない現実に。
戻れない理想に。


本作は韓国の若者の貧富の差や、中国まではいかないが都会と田舎の差が印象に残る。ここは劇中でもかなり印象的に撮されており、「韓国にギャツビーが多い」という発言のように、貧富の差は拡大している。
その日暮らしのような生活はじりじりと精神を蝕み、満足感のない日常は明日に向かわせる気持ちを阻む。
何者かになりたいがなることはできず、持つものと持たざるものの間で揺れ動いている。

存在の曖昧さは、僕らが認識している世界の曖昧さと不確かさを助長し、真実を揺らがせる。
確かに存在していると実感できるのは自分自身だけだが、一人では生きていけない人間は、曖昧な存在たちと手を繋ぐ。
確かさがなければ“人生の意味”を見出だすことができない。
これからの時代の僕たちも、不確かな世の中で“人生の意味”を見出ださなければ…。


『バーニング』版ギャツビーのベンは、やはりギャツビーだと思う。
彼は誰とも理解しあえていないし、満たされてもいない。
人を愛すこと、愛されることの経験が空白のように思え、小説家を目指すジョンスに歩み寄ろうとするのは、ベンが持っていない“人生の意味”や“夢”を持っていたからなのだろうと察せられる。
だから何とかなっていれば、ギャツビーとニックの関係性にたどり着けていたのかもしれないと思うも、やはり貧富の差によって疑心暗鬼にならざるを得ない環境になっているのはテーマではあるなと強く感じた。
“ビニールハウス”のメタファーから、ある事件が予測され、それはほぼ確実なんだろうと思うが『アメリカン・サイコ』のように、自分の意思で引き起こす出来事で自己を見出だしている。
何にも満たされないベンは憐れに思えるが、だからといって誰が彼を救えるかといえば、その存在はジョンス(つまりは貧富による階級ではなく、人間性や経験で満たされている人間)でしかなくなってしまうのは、あまり笑えないジョークのよう。


ヘミは自分の存在価値や人生の目的を見出だすことができない。
その日暮らしの仕事をし、なけなしの金を投じて“自分探しの旅”でアフリカまで足を運ぶ。
「無いことを忘れればいい。」と理解する彼女は、自分の人生に“無いこと”をどのように理解したのだろう。
ヘミに関しては劇中でかなり自分の意思を発していて、あからさまに恵まれない状況というのが理解できるし、変わらない多くの事象に涙を流す。


本作のラストについて。
「小説が書けない。」言葉はあの体験で翻る。
あれは実際に起きたことであるかもしれないが、たぶんそうではないと思う。
彼が服を脱ぎ捨てたことは彼が新たな自分を見出だしたと解釈した。
生物で脱皮があるように、彼も小説家として生まれ変わったのではないか。

多くの伏線は、序盤からの真実が段々と曖昧になっていく。
わからない箇所も結構あったし!難解さはそこまでないが、解釈の多様さが作品の深さを増大しているなぁ。
無言電話、井戸のくだりとかは謎で解釈が進まなかったな。
なんか既視感あるなと思ったが、ハネケの『隠された記憶』っぽいと思ったりも。


人生の意味を求めた先に何があるのか…?
この世界で燃え続けるには。
フラハティ

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