フラハティ

田園に死すのフラハティのレビュー・感想・評価

田園に死す(1974年製作の映画)
3.5
過去の語らい今に期す。


歌人としてデビューした寺山修司は1971年に『書を捨てよ町へ出よう』をひっさげ映画監督デビュー。
そしてATGで代表的な本作は、寺山修司が過去の思い出と対峙する。
ただ自分の過去を描くだけでは面白くない。
だから絵面を強くしようという気概が感じられる作品である。
ATG配給の作品で、前衛的な映像に難解さを感じていたが、筋は意外とシンプルで、“私”との過去の語らいである。

青森の辺境の地で母と二人で暮らす“私”は、隣人の人妻とこの村を出ようと企む。
奇怪なサーカス団と閉塞的な村社会。
どこを歩いてもたどり着かないこの村からは幸福を感じられない。
恐山からのぞむ天国と地獄は、過去の私と現在の“私”を繋いでいる。
このロケーションがより切迫さを感じさせ、青森という地の行き詰まり感を強く感じさせる。


僕たちは過去を美化している。
本作では主人公の“私”を始め、みな白化粧をしている。
これを美化と捉えるのは人それぞれだがそうなのだろう。
幾人かは白化粧をしておらず、これらは“私”が実際に目の当たりにしてきた現実の過去であるのだ。
まさに1964年から発行されたマンガ雑誌『ガロ』のような、理不尽さやエログロ、退廃的、シュール、アバンギャルド等の要素を含み、寺山修司の詩により形成される独特な世界観は、あぁATGだしガロっぽいなと思わざるを得ない。
狙いすぎだろと感じられるわざとらしさすら、もうすでに過去のものなのだ。
鑑賞中うすら恥ずかしい気持ちにもなるが、ちょっと痛い思春期映画と捉えれば言い方を変えればエモいのかもしれない。


本作では時計が強調されている。
掛け時計は家に縛り付けられ、誰も動かすことはできない。
“私”ですら時計を動かすことはできないのだ。
時計=時間と捉えると、過去の出来事は誰も操作することはできず、一定の時を刻んだまま“私”とともに私自身を縛り付ける。
母に対する憎しみは過去から現在まで地続きであり、“私”を縛り付ける。
青森というこの地から離れることは容易いが、母から逃れることはできない。
だが本作だけを鑑賞している限りは、旦那を亡くした母親が一人息子を気にかけるのは至極まっとうと思える。
なぜ“私”は母を憎んでいるのか?
過去は美化できるが、変えることはできないのか?

こういった観点からだとホドロフスキーを連想するが、寺山修司が実際どこまでを捉えていたのかは不明で、正直そこまで寺山修司に興味があるかと言われるとなんとも…みたいな消極さが出てしまう。
ただ日本文化の陰湿さとか、土着感とかを感じるなら本作は良い。
アングラ系とかATGってこんなんだよと説明するには適切な作品。
ジャケも結構好き。
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