グレタ・ガーウィグ版を観てから、「ひとり若草物語祭」してたのが、ついこないだの気がするが、大林さんの遺作を観たら、こんどは「ひとり無法松祭」しちゃってる。
というか、勝新バージョンは存在すら知らなかった。
しかも観始めると、オープニングで監督にクレジットされるのが三隈研次じゃん!
どんなもんかなあ、と思って観たら、これはこれでやっぱりいい作品でした。
三國版は未見だけど、無法松の脚本はすべて伊丹万作のオリジナルを使っているんだね。
私は子供の頃から映画が好きだったんだけれど、「監督」という職業の役割がなかなか理解できませんでした。
「物語は脚本家が書くでしょ? 演技は俳優さんがするでしょ? で、撮影はカメラマンがするじゃん。じゃあ、監督って何する人?」
小学生の頃は、ほんっとに理解できなかった。
もし同じ質問を子供からされたら、1943年版・1958年版・1965年版の無法松を連続して見せるといいね。
監督の仕事がどういうものか、とても理解できると思う。
三隅版は、いきなり冒頭からアニメ合成の蝙蝠が飛び交うし、「なんじゃこりゃ?」と思いかけたんだけれど、これはこれでやっぱり素晴らしい作品でした。
松五郎役を見比べる意味でも楽しい。
稲垣版2つは(1943年版はカットされているので、そこは想像するしかないけれど)ほとんど同じ話運びなんだが、本作はおなじ脚本でも取捨選択とか入れ替えがあって、「96分で描き切れるの?」と思いながら観始めたけど、「あ、綺麗に処理してる」と感心するところが多かったです。
特に「青葉の笛」のリハーサルシーンの省略は、「あ! なくても成立する。いや、むしろテンポよくなってる!」と感じて、ここは見事。
何よりも、三隅監督は本作のようなしっとりした演出もできるんだと思った。
「1943年版=水墨画」「1958年版=水彩画」とするなら、本作はコッテコテの油絵なんだけど、そこに「勝ち目のない戦いに挑んだ」(というか、あてがわれたんだろうが)三隅監督の意気込みを感じました。
アップや会話でのパンの多用は時代の要請なんだろうけど、それはそれで「違い」があって面白かった。
あと、松五郎、初見から惚れちゃってるじゃん! どうかな、とも思うけど、「違い」ですな。
稲垣版2本(というか、伊丹脚本)の「ぼんぼん→若大将→吉岡さん」は、35年くらい前の高校の頃に1958年版を初めて観た私ですら、「吉岡夫人、結構残酷な発言してるな」と感じ、「いやいや、当時ならそれが酷いことでもなく当たり前の感覚だったんだろうな」と考えて、そこは現代人(つっても35年も前か!)ゆえの感じ方なんだけど、なんか思い出すたびにしこりがありました。
本作は、そこが「ぼんぼん→若大将→敏雄さん」に微調整されていて、「あ、やっぱりそうだよね。『吉岡さん』はあんまりだもんね」と思った。
っていうか、本作は私が生まれる3年前の映画なんだけれど。
今なら「敏雄くん」だろうね。でもそれじゃ、普通過ぎるので、松五郎の寂しさが全然わからなくなっちゃう。
だから「敏雄さん」でいいのだ。
もちろん稲垣2作品に較べると、評価が低くなる本作だろうけれど、少年時代の松五郎が幻視する幽霊のホラー演出は本作がいちばん楽しい。幽霊なのに刃物持って追いかけてくるところはさすが三隅監督!