ryosuke

白い肌の異常な夜のryosukeのレビュー・感想・評価

白い肌の異常な夜(1971年製作の映画)
4.4
冒頭、画面内に唐突に侵入する血塗れの脚。このエミーとマクバニーの出会いのシーンでサスペンスを作り出すのは細かいカット割りの組み立て、アングルの変化であり、どこかヒッチコックの遺伝子を感じたりする。ここからラストまで緩むことなく、的確かつ創意に富んだ(障害物によるタテの構図、ここぞという時の魅力的なワンカット)ショットがビシバシ組み合わされ続ける。これこそが良質なアメリカ映画だなという古典的ハリウッド映画の洗練された語りの手法が映画を駆動する一方、ハリウッド黄金期も遠くなった70年代作品としての、古典的語りの規範からの過剰な逸脱にも抗い難い魅力があるシーゲルの演出に痺れる。そんな本作が常にブルース・サーティースのリッチな画に彩られているのだから傑作にならざるを得ない。特に夜の深い闇と複雑な照明の戯れ、それにより生み出される豊かな影(キャロルとマクバニーの階段でのすれ違いのシーンの背景、邪悪な儀式を執り行う血に濡れたマーサの背後に映る禍々しいノコギリの影)が見事。
登場人物の台詞や挙動については、その背後にある意図、心理状態が分かり易すぎるのは否めないかな。それどころかボイスオーバーで全部言ってしまうこともしばしば。フラッシュバックによる過去のイメージの挿入も相まって、内心がひたすら露わになってしまう語り方は美点とは言えないのかもしれないが、妖しさ満点の作品の中に登場人物の心理がダダ漏れになることで、濃厚な情念の塊となっているのもまた確かだと思う。
キャロルが聖書の購読の時間に抜け出して、マクバニーにキスをすることで堕落を示すのも分かりやすい感じ。
誠実そうな面で現れたイーストウッドだが、即座にその女たらしぶりを見せつけ始め、一筋縄ではいかない人物であることが明らかになる。負傷の経緯の語りとオーバーラップの内容のズレについては、一度目は「ん?」とは思うが何となくスルーしていたところ、二度目の作物に火をつけるフラッシュバックでこの男の本質が確信される。
そして、マーサとエドウィーナがシームレスに接合されていくオーバーラップの艶かしさ...!「アタラント号」の時点で既に示されていたオーバーラップという手法の官能性が爆発している。そして同時に、オーバーラップは裏切りのイメージともなっており、マクバニーは二人を個別の人格として区別しておらず、「女」という一つの対象と捉えていることが表れているように思う。この点から、後半の展開についてフェミニズム的な読み込みも可能となっているかもしれない。
女としての自分を忘れてしまうと冒頭に語っていたマーサは、女子学園を家父長的に統制し、南北戦争の時代としては珍しかったであろう「男」の役割を果たしていたところ、マクバニーの登場によって忘れていたものを取り戻すという構成となっている。そして、豪快な階段落ちからそれが再逆転するのだ。残酷な脚切断は去勢を思わせる(後にもやはり台詞として出てきた)のだが、それに気づいた瞬間のイーストウッドの顔!そんな彼が支配する側、「男」としての立場を取り返すために手にする拳銃もメタフォリカルに見えてくる(亀も?)。
序盤から、校長という立場には不相応な不気味な笑みを浮かべ続けていたマーサだが、直接手を下すのは止めようと言いながら目線で指示を送る彼女のあまりに残酷な判断はやはりこいつ...と思わせる。これからの惨劇は聖書とキャロルのエピソードとは比べものにならない悪徳であるにも関わらず、平然と食前のお祈りをするマーサにとって、強烈な情念の前に神など何でもなかったことが明らかになる。
そして、ここで一番怖いのはマーサであると見せかけて、実はマクバニーだけでなくエドウィーナがキノコに手を付けることも止めようとしないエミーだろうな。やはり彼女の動機は亀の復讐だけではない。二人が結婚の意思を告げたからこそ、二人纏めてあの世に送ろうとしたのだ。
オープニングの歌で死の象徴として示され、マクバニーの分身として分かりやすく登場するカラスは約束された運命に従って吊るされている。しかし、それはオープニングでは戦死の象徴として歌われていたはずであるところ、勇ましい「男」としての死は与えられないマクバニーの結末は、見事に「女」たちによる復讐となっているのだろう。
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