だい

牛泥棒のだいのネタバレレビュー・内容・結末

牛泥棒(1943年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

これはすごい!

超 ★ 名 ★ 作

今まで観た中で、ベスト3には確実に入るくらいの名作!
「名匠クリント・イーストウッドが生涯ベストに上げる隠れた名作~☆」
という触れ込みを見て、観てみたわけなんですけどね。
クリント・イーストウッド作品を観たことのない俺が!
観てみたわけなんですけどね。
結論、

クリント・イーストウッドに間違いはない
(観たことないけど)


何がすごいってね、
悪人がいないんですよね。

もちろん観てる側からすれば、
拙速に私刑を実行しようとする連中、
彼らは悪役ではあるんだけど、
彼らは彼らなりの正義でやってる。

町に馴染みの深い牧場主が殺された。
みんなに優しくて、真面目で町一番の敬虔な仲間が殺された。
しかも、牛を奪うためといういわば金目的の犯行だ。

殺された仲間のためにも、
そして何をしでかすかわからない凶悪犯から町を守るためにも、
何よりも牛という財産を尊重する西部の掟を守るためにも、
彼らは動かなければならない。

少なくとも、彼らの中では、
「悪いやつは絶対に許せない」
その気持ちが、たしかにあった。


だからこそ、冤罪がわかった後のみんなの茫然自失の姿があまりにも悲痛。

「悪人を成敗する正義のヒーロー」のつもりが、
実は悪人は自分たちでした、
と知ってしまった時の後悔と自責。

軽い気持ちなら、あそこまでの結末にはならなかった。
彼らは彼らなりにきちんと正義を追求してたからこそ、
それが間違いだったと知ったときに、
少佐は自ら命を絶つ道を選ばざるを得なかった。

「彼らは煽られているだけなんだ」

悪人に僅かの時間も、司法での裁きを受ける権利も与えなかった正義。
でも実際に悪人であった自分たちは赦されていたのだ。


犯人探しに行く前に、
「大丈夫だ、きちんと多数決をする」と、
多数決は常に正義であるかのように信じていた男たち。

間違った人が、
煽動された人が多数のときは?

そんな事実が、
今までの彼らの正しさの基準にNOを突き付けて、
そしてその時思うものは?


無実の男を3人殺した事実。
それを、町のほぼ全員がこれからずっと背負っていくということ。
彼らは、
自分のどの時間の、どの行動を悔やむのかな。


俺らは、
誰かを吊してないか?
誰かを吊してこなかったか?

相手の言い分を聞かず、
相手の言い分を嘘だと決めつけて、
勝手に断罪してこなかったか?
勝手に排斥してこなかったか?

3人を早く吊そう!という連中に嫌悪感を抱いたなら、
自分もそんな連中の顔をしているかもしれないことに気付かなくちゃね。
だい

だい