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光陰的故事の海のレビュー・感想・評価

光陰的故事(1982年製作の映画)
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小学生の頃に引っ越しが重なって全部で4つの学校に通ったんだけど、そのうち2つの学校の校長先生が、夏休みの前の終業式で「光陰矢の如し」という言葉について話していて、印象に残っている。とは言っても小学生の頃に、今のこの時間はあっという間に過ぎ去っているんだから大事にしなさいと大人に言われたところで、実感は無い。一年は一生分くらい長かったし、それどころか一日だって、今思い返せば違和感を覚えるほど、夕方帰路につくまでの時間は妙に長かった。一日かけて学んだり、一時間かけて心を動かしたことは、この先の何十年という時間の中にも変わらない同じ姿で在り続けるものだと信じていた。だから、ただ「先生」と声を掛けるために心臓が爆発しそうなほどの緊張が要ったし、だから、同級生が転んで泣いているだけで自分まで泣きそうになったんだろう。今わたしがすることのすべてが、わたしが失ってきた時間と深く傷ついたりした経験がわたしにさせていることなのだと思うと、過去について語ることは、本当に尊くて愛おしい、希望のようなものだと感じ、胸の奥が熱くなる。本作に入っている4つの短編。少しずつ年齢を重ねていく彼らは皆、違う映画監督の元で生まれた違う人間であるはずなのに、何故かひとつの線でもあるような気がしてくる。その一方で、遍在しているようにも思える。どうして台湾はこんなにも、わたしたちが気づかぬ間になくしてしまっているものの気配がするのだろう。ある日、目覚めると、シーツが血に汚れている。この赤の鮮烈を、知れるのは少女だけだ。ひとつひとつ起きていくことに、わたしたちはゆっくりと、でも着実に、追いつけなくなっていく。高校生の頃に毎日気にして見ていた、いつまでも売れない売店舗はまだ売れてなかった。電車に乗って、ふと思い出す。乗り口にある整理券の機械、いつのまになくなったんだっけ。高校生の頃、整理券を切るあの音が好きで、その瞬間だけイヤフォンを片方外してたっけ。卒業式の日、お世話になった先生とした握手は、これまでしたどの握手よりも力強くて、長かった。なくしたくなかったものばかりがある。そしてきっと、今、目の前にあるものも。一生分だと思っていたあの時間は一瞬に過ぎなかったけれど、百年に見合うひたむきさでわたしは、確かに生きてきたのだと思った。

全編続けて鑑賞。
恐竜君(小龍頭)/タオ・ドゥツェン
希望(指望)/エドワード・ヤン
跳ねるカエル(跳蛙)/クー・イチェン
名を名乗れ(報上名來)/チャン・イー
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