恥と外聞

海がきこえるの恥と外聞のレビュー・感想・評価

海がきこえる(1993年製作の映画)
3.0
『おもひでぽろぽろ』と並んで、ジブリの私的二大退屈作品に認定したい。

見どころがないとは全く思わない。

キャラクターのスタイリングや高知の風景や吉祥寺駅のホームは素晴らしく美麗で、特に高知空港のロビーでベンチに腰掛けた際に里伽子が見せた上目遣いは日本アニメ史上屈指の表情描写だったとさえ感じる。

で、あるからこそ、現代において古き良き(?)ニッポンの在りし日を懐かしむ/希うための完成度の高い手軽な素材として(権利者が望むと望まないとに関わらず)容易に消費され得る立ち位置でのマーケティングに結びついてしまうのは本当に堪え難い。

とはいえ、意図的に薄められた土佐弁とか、そもそも本作自体も源流の一つであろう「大和民族に過剰な希望を背負わさられた、二度と手の届かないところへと過ぎ去ってしまった青春、高校生活」とか、断じて高校生が言わないであろう、演技にしか登場しない架空の高校生像を表す台詞の数々とか、まぁ半分は首都圏で男子中高一貫校に通った自分の僻みだろうが、これらのこと全部ひっくるめて憎たらしいアニメには違いない。

いっそ音声部分は全部カットして、全部「90年台の文化遺産」として切り売りしたら確かにそれはそれでそこそこの金儲けにはなるかもしれない。
願わくば不倫父が成城に構えたラグジュアリーマンションの内装が見てみたかったものである。

多分、30年前には「上京して、かつ地元と行き来する社会人」の割合が今よりもっと多くて、こうした人生上の一コマももっと普遍的なもので、今日我々が何となく感じるような“エモさ”(キッショい言葉)がもっと字義通りの意味を持っていて、それはリアルで、でも逆にそれ以上の意味は無かったのだろう。
数年前から感じていることだが、今現在我々が生きている(もう既に“生きている”と言うべきだと確信しているのでそう書く)ヴァーチャルなSNS空間においては、「一度卒業して再会した旧友たち」に特別な感情を覚えることは簡単なことではない。
いや、もう二度と同じ時を過ごせない寂しさ自体は変わっていないだろうが、「今も同時代を共に生きている」という実感がそれを中和して、あたかも懐古主義など不要であるかのように我々を未来へ未来へと押しやっている。
あるいはそんな「実感」など、日々スマートフォンに手垢を擦り込ませることで擬似的に生じた単なる習慣、手癖の延長でしかないものなのかもしれないが…

出来心で原作後半のあらすじを読んだけど、これは続編ありきでここまでは前日譚、だからこそのこの物語の薄さ、原作モノの映画化につきものの不幸な結末だったのだろうと納得するしかない。

ル・シネマ渋谷宮下を長蛇の入場規制列で満員にした光景を見る限り、こうしたアニメ映画が今週のデート映画の筆頭格のような熱気と勢いを持っているのには素直に驚いた。

ヲタクが過去の偉人たち画力や色彩表現に感心するばかりではなく、ジブリというブランドが如何にコントロール困難な領域にまで肥大化しているか…あくまで僕個人としては「スクリーンでの鑑賞が必須」という類いのものではなく、むしろ家で円盤を少しずつチマチマコマ送りしたいタイプの一本であった。