くまちゃん

言の葉の庭のくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

言の葉の庭(2013年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

「君の名は。」というモンスターコンテンツ誕生前の新海誠による映像的価値が非常に高い秀作。

「君の名は。」は時空を超えた運命的な恋や、迫りくる災害、人格転換のファンタジーなど娯楽性が高い。
対して今作はしっとりとした恋愛映画であり、心情を映像で表現しているためどちらかというと芸術性が高い。

高校生の孝雄は靴職人を目指している。ティーンエイジャーにしては渋い職種のチョイス。ではなぜ「靴職人」なのかか?
中盤幼少期に母へ「靴」をプレゼントした回想が挿入される。
その時の喜んだ母の反応が嬉しくて靴職人を目指し始めたのだろうか?

孝雄は兄と母と三人で暮らしている。
兄が家を出ると話した翌日から母は自身の交際相手の家へ転がり込んだ。
ライトに描かれてはいるが中々ハードな家庭環境。
母は若いと言う孝雄に対しお前は老けてくと評する兄。これは家族の生活基盤は孝雄が支えている事を示している。
つまり孝雄は家庭における「靴」なのだ。
「靴」は本来出歩くためのものだ。抑圧された日常からの開放、その象徴が「靴」なのである。
また、孝雄は思い出深い「靴」に対し、失って久しい母性を求め、無意識に志すようになっていったのかもしれない。

雨の日の庭園で孝雄と雪野は出会う。
雪野は料理が苦手であり、平日の昼間からビールとチョコレートをつまむ。
その社会人らしからぬ謎めいた存在は、多感な少年の心を刺激するには十分であり、「大人」の枠から逸脱した雪野は孝雄にとって母と重なる部分があったのではないか。
そう考えると孝雄が雪野に惹かれたことにも納得がいく。

孝雄は雪野に癒やしを求め、手を差し伸べ、母性を求めた。

雪野は生徒とのトラブルにより味覚を感じなくなっていた。
味覚の喪失は演色性豊かな新海ワールドにおいて全編モノクロに等しい。夢と希望に満ち、志を持って教育者を目指したはずだったのに。雪野の不安や焦燥は計り知れない。
つまり見方によっては、色を失った女性と未だ色を持たない少年が己の色を探求する物語とも言えるのではないだろうか。

「雪野さんが好きなんだと思う」
そう気持ちを伝える孝雄に対し、雪野は答える。
"さん"ではなく"先生"
雪野はあの場所で歩く練習をしていた、靴がなくても一人で歩けるようにと。
生徒と教師。自分達の立場を強調し拒絶する事で孝雄に癒やしを求めていた自身の甘えに気付く雪野。
気持ちは嬉しいが受け入れることはできない。大人としてのモラルがそうさせない。孝雄の優しさに甘んじてしまっては前に進めなくなる。
逆に孝雄は母がひと回り年下の男性と交際していることから互いの立場にはあまり頓着しなかったのかもしれない。

部屋を出ていく孝雄を追いかける雪野。
つまづき、転びながら、それでも立ち上がり必死にひた走る。そんな彼女の足元に靴はない。これが彼女の大きな一歩であり、孝雄との決定的な別れであることは言うまでもない。

孝雄は気持ちがあふれる。大人に憧れ、いくらか背伸びはしてみてもやはり年相応の15歳なのである。
靴は歩行するため、その職人は安全に歩行させるために靴を作る。
雪野にとって確かに孝雄は靴職人であった。彼女が一人で歩けるように補助していたのだから。
二人は互いを求めていた。色恋などと簡素な感情ではない。人の心はグラデーションのように微細で色鮮やかで、繊細なのだ。まさに新海誠の色彩、光彩は心の内面を情緒豊かに描写している。

エンターテイメント性を強めると興行収入や観客動員数といったわかりやすく可視化された世間の評価と収益に直結する。しかし、小規模ながらこれほど精緻な作品をアニメーションで作る事ができるというのはジブリやディズニーとも異なる新たなジャンルの開拓となり得るだろう。
くまちゃん

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