ひょう太郎だよ

フリークス(怪物團/神の子ら)のひょう太郎だよのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

身体障害者本人達が多数出演する1932年の問題作。
障害者達の復讐劇というストーリーはちゃんとあるが今回そこには触れん。
(ストーリーは現代でも手を変え品を変え繰り返されてる普遍的なテーマ)

今回触れたいのは何故こんな80年以上前に作られた映画がいまだに需要があるのかって事。
身も蓋もない言い方をすれば「本物の障害者が見れる」という事だと思う。
差別的とか思われそうだが根本はここだと感じる。

監督であるトッド・ブラウニングの作品のレビューを一通り見たが今作と『魔神ドラキュラ』を除いて軒並みレビュー数は一桁とか0。
このフリークスを撮っていなければ現在では忘れられた存在になっていた可能性は大であろう。
(ちなみにこの監督はフリークスで様々な非難を受け事実上今作で監督生命が途絶えたらしい)

では何故トッド・ブラウニング作品で今作だけが現在まで見続けられるのか?というと前途したように「本物の障害者が見れる」に尽きると思うんだよね(絶対今じゃ実現不可能だし)
げんに私も観た動機はこれだから。

これは悪趣味とかそういう話ではなく人が持つ欲なき好奇心がそうさせるのだと思う。
元々映画の成り立ち自体が“今まで見た事のないような物を作って人々を驚かせたい”という事が根幹にあるし、観客も“見た事のない物を見て驚きたい”という欲求がある。
この両者の心理はエンターテイメントの本質からすると至極真っ当な事であり正しい姿勢だと思ってる。
だからその意味ではこの作品ほどプリミティブな衝動が詰まったまさに映画らしい映画はないんじゃないかと思うんですよ。

トッド・ブラウニングはこの作品で監督生命は奪われたかもしれないけど、80年以上経った今でもこうして見続けられているのだから映画監督として監督冥利に尽きるんじゃないかな。
だって今ヒットしてる映画でも80年後も見続けられ語られる作品なんて、そういくつもあるわけじゃないと思うからね。