あなぐらむ

パトリオット・デイのあなぐらむのレビュー・感想・評価

パトリオット・デイ(2016年製作の映画)
4.7
「バトルシップ」でその筋(どの筋)のファンを狂喜させた監督、ピーター・バーグと「ローン・サバイバー」でも強烈な印象を残したマーク・ウォルバーグが三度タッグを組んで(間に「バーニング・オーシャン」が入る)ボストンンマラソン・テロの犯人確保までの経緯を描いた実話もの。なかなかにパンチの利いた作品だ。

アクション映画監督としてのピーター・バーグの資質は上の2作で十分信用に値するものなのだが、今ひとつこの人の立脚点が分からないでいた。職人映画監督としてきたものをこなすタイプ、というのはちょっと違う気がしたからだ。
そこが本作を観てみて、凄く自分なりにすっきりしたんで書いておく。

ピーター・バーグの作品は一貫して欠損している者を描こうとしている。
それは肉体的な欠損というより精神的な欠損である。それを「目に見えるもの」として肉体の欠損、特に「歩けない者」(人としての一番基本的な行動が不自由なもの)として描く。
本作では被害者の多くが脚を負傷したボストンマラソンテロが題材である。
主人公マーク・ウォルバーグも膝を痛めた警官で終始脚を引きずっている。これは負の、心に傷を負う者の印である。(終盤に、彼が妻ともども心にも大きな欠損・傷を負っている事が語られる)

冒頭から我々観客は、この映画のどこかでその時が来るのを知っている。待っている。
その中で民衆の日常が、幸せな時間が描かれていく。普通に仕事をし、普通に一日を終え、明日の「愛国者の日」を待っている。休日を楽しみにしている。未来を見ている。
そしてその瞬間が起こる。そこから人々は未来とは隔絶され、ある者は病院に送られ、ある者は捜査する側、救出する側、またはなんと犯人に拉致されたり射殺されたりして映画内の「今現在」を生きる/死ぬ事になる。
沢山の人が実際に脚を失い、その光景、8歳の子供が死んだ姿を見た事で心に深い傷を負い、息の詰まるような四日間を生きていく。

主人公として一応マーク・ウォルバーグが設定されている(彼と妻だけが架空の人物であり、三人の実在の人物のミックスになっている)が、これは「彼ら」の映画である。「Them」の映画である。街に生きる人、ボストンに生きる人たちの映画である。
「ローン・サバイバー」が一人を生かすために散っていく者たちの物語であったように、「バトルシップ」がテイラー・キッチュだけを英雄として描かないように、ピーター・バーグは「その他の人々(彼が言う「民衆」。ワーキングクラスの人々)を主人公に据える。
一番象徴的に描かれるのはクライマックスの市街戦とも言うべき銃撃戦の局面。
ここにマーク・ウォルバーグがいないのがポイントである。いるのは自宅で愛する妻(おそらくは体が不自由な)が待つ老齢のウォータータウン署の署長であり、彼も後半に駆けつけるばかりである。
テロリストとの銃撃戦は名もない警官達が銃のジャムと、飛んでくる金属爆弾に苦戦しながら行われていく。

ピーター・バーグはドキュメンタリストとしての資質を持つ監督なのだ。
これはキャスリン・ビグローのようなアドレナリン・ジャンキー型の監督の資質ではなく、リアリストとしての監督の資質だと思われる。クローネンバーグのような傷口フェティシズムとも違う。
彼が足の欠損を描くのは、そこに力強いメッセージを見ているからだ。

物語が終わり、映画はレッドソックスのホームグラウンドで現実とのリンクを行う。
殆どの人物が実在の人である事が伝えられていく。そして、彼らはその欠損と心の傷を「はね返して」今も生きている。克服し強く生きようとまた「未来」を見ている。
その姿こそがピーター・バーグの描きたい「生の力」「生きようとする(サバイバーとなる)意識」への賛美である。
「ボストンよ強くあれ」という言葉を愛国心に繋げるのは陳腐な考えである。たまたま起こったのが「愛国者の日」であっただけで、そこに描かれるのは反テロリズムや反イスラムのメッセージではない。人よ強くあれ。前を向いて困難を越えよう。そういうメッセージである。
それは「フクシマ」や「クマモト」の人々が強く生きようとする姿と同じである。

名もなき英雄たちの言葉に監督たちはバトンを渡し、映画は終わる。
政治の映画ではない。映画の基本たる「困難に対面した人がそれを乗り越えていく」というストーリーラインの傑作である。