MoviePANDA

映画 中村勘三郎のMoviePANDAのレビュー・感想・評価

映画 中村勘三郎(2013年製作の映画)
-
『花火燃え、
   尽き、祭りのあと』

粋でいて、情に厚く、涙脆い。歴代の付き人達が会いに来れば、嬉しさのあまり、満面の笑みのち涙。そして口をついて出る言葉は「バカだねぇ、あいつらρ(・・、)」人の喜怒哀楽というものをこれだけ体現している人が他にいるだろうか?女はもちろん、男も惚れる男、その人が中村勘三郎である。

思えば、物心がついた時にはファンだった。テレビで中村屋の密着ドキュメントがあれば必ず見ていた。うちの奥さんもやはり好き。だから結婚してからは一緒に見てた。そして見る度、元気を貰うと共に、仕事のモチベーションをぐぐいと上げられる⤴

息子の勘九郎へ演技指導をする場面。あなたは真面目すぎると勘三郎。本当にそんな事を思ってはいけないけれど、あくまで極論として「あぁ、今日の夜はハンバーグだなぁ」と心で思いながらでも、しっかり演じられる位でなければ駄目だと言う。

接客業は役者にならなければならない。例えプライベートで辛い事、悲しい事があっても、風邪で具合が悪くとも。それはお客様には関係のない事。どんな時でもお客様には最高の笑顔で接する事。これはボクが上司から教わり、そしてまた、ボクが部下に教えた事のひとつ。こんな事を思い出される位、彼を見る度そのプロフェッショナルぶりに再び奮い立たされる。

その日の公演がある町を歩く勘三郎。たまたま通り掛かった喫茶店の店頭のボードに“勘三郎パック”なる表記。するとドアを開けて、お店にひょいと入る。「なんなのこれ?」気さくに話しかけ、店の人の「勝手に名前使いました!」にも、「ああ、いいよ!いいよ!」と笑顔で接する。本当に粋な男(ひと)だ。

50~70歳まではとにかく駆け抜けると言っていた彼。彼ぞ、彼こそ花形役者!古典もうまけりゃ、女形もうまい。かと思えば平成中村座を立ち上げ、ニューヨークはじめ世界各国で公演。ニューヨークタイムスでは「この夏の大作映画の最大のライバルは中村座!」と絶賛を受ける。「大江戸りびんぐでっど」なるゾンビものの歌舞伎までやっちゃうんだから、その攻めの姿勢と先見の明には脱帽する。

型があって、それを体得し、それを破って初めて型破り。型のままなら型通り。型を心得てもいないのに、破ったらそれは型無し。ラジオの「全国こども電話相談室」で無着成恭さんが答えたものらしいのだが、まさに勘三郎は型をしっかり会得したうえで、歌舞伎の未来を見据えていつも“その先”を行っていたと思う。言い換えれば、それが生き急いでいたという事なのかもしれないが。

「不肖の同級生より」
桑田さんが病に倒れた勘三郎に宛てた手紙。車にサザンのCDを積んで聴いていたという勘三郎。ファンだという。会った事はなくとも、そこにあったのは一線を走る者同士の絆。そして、書かれた返事は、
「誇れる同級生へ」


勘三郎の食道がんが発覚する2年前、2010年夏。同じく食道がんを患った桑田さん。そして2012年夏、自分の“命を繋いだ”医師を紹介し、勘三郎の手術は成功。しかしその後、抗がん剤治療等の影響で免疫力が低下し、ウイルスに感染、さらに肺炎と肺水腫を発症。12月5日、帰らぬ人となる。

その2012年の秋から冬にかけて行われた、実に5年降りとなる桑田さんのソロツアー。まさにがんからの復活を告げるそのツアーのオープニングは、歌舞伎の口上調。11月のさいたまスーパーアリーナ公演を観ましたが、これは勘三郎へのエールだなと感じました。しかし、その翌月に逝去。年末のライブでは、その演出がまるで弔いと感じられる様になってしまいました。

今年の7月に亡くなった永六輔さん。生前、娘の永麻理さんにこんな言葉を残していたそうです。「人の死は二度あるんだ」と。一度目の死は、肉体の死。そして、世の中の人々の中に自分を知る者がいなくなった時。それが二度目の死だと。それに当てはめた場合、おそらく勘三郎には二度目の死は訪れないでしょう。

「よっ!中村屋っ!」

彼への溢るる想い。
それは数字では表せません。
ただ。ただ一度。出来れば生で観たかった。
MoviePANDA

MoviePANDA