ニトー

劇場版 PSYCHO-PASS サイコパスのニトーのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

サイコパスのシーズン1新編集版がBSで放送されていた流れでこちらも放送されたので観てみた。気づけばこのアニメシリーズも10年選手で、まあシーズン1の放送開始当時から現在に至るまで新作が発表されるとその都度大なり小なり話題にはなっていたのでその存在自体はもちろん認知していたし、興味がなかったわけではないのだけれど、後回しにしている間にいくつも劇場版がやっていたり新しいシーズンが放送されたりで新規で入るにはちと厳しいものになっていた。

現在公開中の新作映画も、正直今のような中途半端な視聴者状態で観に行くには忍びないし、かといってここから有料でほかのシーズンやら劇場版やらを観るほどにモチベーションがあるかというとそうでもなく、有り体に言えば「普通に観る分には結構面白い」部類のアニメではあれ、めちゃくちゃハマるというわけでもなかった。まあハマる人がいるのもわかるが。

ただまあ、これ明らかに「ポスト伊藤計劃」という彼の死後に一瞬だけ流行ったターム(とか書くと嫌味がすぎるが)を自覚的に内面化していて、その世界観からして割と彼の著作のそれをベースにしているというか、かなり直接的な影響を受けているはず。いやもちろん管理社会=ディストピアを描いた社会SFはそれ以前から腐るほどあるし、伊藤の著作自体がそれらを下敷きにしていることは間違いないのだが、しかし数々の歴史的作家や哲学者への言及の中にしれっと混ざる「プロジェクト伊藤」の名前からして、明確に意識していることは論を待たないだろう。しかしである、これは私が伊藤計劃を敬愛しているがゆえでもあるのだが、彼の著作の描いたものに関してはまだ現代にも有効な側面はあると思うのだが、流石に10年前のシーズン1およびこの劇場版1作目についていえば現代に追い付いていないのはもちろん当時の伊藤の思想にもキャッチアップできているとは思えない。

本劇場版の前にテレビシリーズのシーズン1について言えば、その衒学趣味は別に良いし群像劇として各キャラクターが立っているので最後まで完走するのは余裕なのだが、肝心のSF部分に関してラストのオチの弱さは設定的にも、ビジュアルイメージ的にもパンチは強くない。インパクト自体はあるかもだが、しかし「脳」てアンタ。それでいうならバカバカしさに振り切ったマモーの方がまだ面白かったと思う。比較するには土俵違うけんど。同じ「脳」のビジュアルイメージによるアクロバットなら小林さんの「脳喰い」(小説じゃん)の方がいいけど、こっちもこっちで土俵違うか。あくまで脳みそ繋がり、ということで。

ともかく、テック系のジャーゴンや過去の作家などの引用によって騙されがちだが、シビュラシステムの論拠の弱さというのはそのビジュアルイメージと同様であると言える。

ところでテレビシリーズシーズン1に関しては日本国内の特定の都市部が舞台だったが、言うまでもなくそれはテレビシリーズを相対化するためであろう。

とはいえ、こちらに関しても大きなSF的な面白みがあったかというとそこまでではない。まあ相変わらずキャラクターは良いよ。CV石塚運昇のキャラクターなどは、時期的にも「メタルギアライジング」のアームストロングと色々被るところがある(知的ながら肉体言語優先なとことか)のだが、本編の内容そのものはそのMGSシリーズがその時点で提示していたものと比べてもどうだろうか、というところがある。

そもそも、このサイコパス劇中における日本(だけ)がなぜこのような管理社会になったのか、という理由がよくわからない。議論を極めて単純化することになるが、管理社会・監視社会(もちろん両者は単純なイコールで結べないが)に至る分かりやすい一つの指標として、たとえば監視カメラの数でいえば日本は500万台でイギリスと同数だが、国土面積を度外視しても同じく民主主義国家であるアメリカはその10倍、中国に至っては40倍の数が設置されている。

とある(管理)社会の形がそのようになるには、それだけの歴史的・思想的背景が要請される。サイコパスの舞台となる西暦2110年代に至るまでの背景の設定は存在しているのだが、ぶっちゃけ無理がある気がする。というのはまあ、なんというか設定それ自体が悪いわけではなく、今現在、現実の日本があまりにもしょぼすぎるが故(マイナンバーカードの管理すらまともにできない政府がシビュラシステムなんて運用できるわけねーだろ)であり、SF的設定の強度に現実を直視しなければならない一日本国民としてはそのファンタジーを信じきれないのである。本当に申し訳ない。

「物語は現実より強い」。伊藤計劃はかつてそう言ったが、その強さというやつは今や陰謀論という側面において全面展開されている。SNSの到来を待たずして、20年近く前にはすでに「書き込む」という行為に伴う思考の排除を揶揄していたが、確かに。

システム運用の中枢が日本の厚生省というのはまあいいとしても、属国根性丸出しの現代日本の現実から逆算するならば、その上にはやはりアメリカの影がちらつかざるをえないのだが、そういう設定をぶち込んでくるのかどうか、少なくともシーズン1と本作からだけではわからない。

とまあ、難癖はさておくとしても、本作とシーズン1に関しては民主主義、自由意思なるものに対するnaiveさが弱さと言っていいだろう。というのが、2023年現在の視点からの私見である。

シーズン1のラストの常森とシビュラの対話も、本作のクライマックスからラストに至る常森の弁舌も、ヒーロー映画ならまだしもSFでやるには感情論が過ぎるのである。
たとえば、トランプの当選にせよ日本の政治の体たらくにせよ、それは民主主義が正常に作動した結果であって逆機能などではないなのだし、その帰結に至る民衆(=衆愚)の自由意思は如何とするのか。そこに対する洞察が、主に敵のイデオローグに依拠しているのだが、本作ではその部分も弱く、その代わりに肉体言語や戦闘描写が盛られているので、そういう意味では劇場版的な豪華さはあるのだけれどそのもやもやを忘れさせてくれるほどではない。

とか言いながら、こうやって書いているうちに少し続きが気になってきてしまってはいる。まあ、それくらいは面白い作品ではあると思いますよ。
どことなくビジュアルイメージがベトナム戦争映画で観たような感じだったり、そもそも話の構造が「地獄の黙示録」だったりするので、そういう映画が好きな人も案外ハマりそうではある。
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