自分が自分であることとは
ルパート・サンダース監督 2017年製作
主演スカーレット・ヨハンソン
アニメを実写化する意義ってなんだろうか?
僕は「攻殻機動隊」の熱烈なファンなんです
劇場版アニメ、OVA、原作マンガ、小説と全てをフォローしています
(後日、本家を、改めてレビューしようと思ったので、詳しくは割愛)
なので、今作はオリジナルを無視してレビューすることがちょっと難しそう……
主人公は脳以外の人体組織を機械に置き換えられた(これを義体化という)少佐と呼ばれる女性
その少佐を中心に電脳テロ犯罪を取り締まるべく組織されたのが公安9課
その9課が捜査したあるサイバーテロをきっかけに、少佐が自分の過去に疑問を持ち始める……
人を人たらしめているものって何だろう?
脳以外の体のほとんどを義体化された少佐を人と呼ぶのは何故か?
限りなく人に近いアンドロイドを人と呼ばないのは何故か?
例えば、
エイリアンにおけるビショップ
ブレードランナーにおけるレプリカントたち
スタートレックにおけるデータ
みな、外見上は限りなく人間に近いにもかかわらず人ではない。それゆえ、人に憧れ、人以上に人らしく振る舞うこともある
中には、自分が人でないことを知らずに生きるものもいるのだ……当然周りも気づかない
かつてフランスの哲学者デカルトは、自分が信じている全てのことが神に騙されているのかもしれない。今、窓の外を歩いている人が本当に人だと何故言いきれるのか、と自問した。だから、目に見える全てのことをまず疑ってかかることを唱えた(これを方法的懐疑というのね)。その中で、どうしても疑うことの出来ないもの、それは、今、疑っているという自分自身の存在であると考え、それこそが唯一世界を知るための拠り所であると考えた。いわゆる、「我、思う。故に我あり」という有名なセリフがこれね。
自分の存在が何であるのか?
本当に人であるのか?
それを自問する少佐は、デカルトの言葉を借りれば、紛れもなく人と言うことができる
しかし、それすら、プログラムの産物かもしれない……電脳化された世界では、ゴーストハックにより、自分が乗っ取られることも簡単なのであるから……
トグサのように、ひたすら義体化を拒み、生身にこだわって生きる。傷や痛みこそが存在証明なのかもしれない。
バトーのように、怪我をして生身の体を失い、義体化されたひとつひとつが生きた証なのかもしれない。
少佐のように、全身義体となり偽りの記憶を与えられ、ニセの人格で生きたものは、自分のアイデンティティを疑っても不思議ではない。
この映画はそんなアイデンティティ喪失に陥った少佐が、失った自分を取り戻す少佐個人のストーリーであった!
しかし、それって攻殻機動隊ではない。
さて、ここで、冒頭の疑問に戻ろう!
アニメを実写化する意義ってなんだろうか?
今作は残念ながら、オリジナルのアニメが持っていた哲学的とも言える人間の尊厳に関わる問いは薄まってしまった!
僕自身はそこに魅了されて作品を見続けてきたと言っても過言ではない。
今作はあまりにもハリウッド的な分かりやすい作品になってしまった……
あたかも外見のよく似た義体を与えられたかのように見える。しかし、よく見るとその電脳さえもが別物だと気づく。
でも、作品発表から20年以上を経た今、オリジナルを知らない若いファンが、作品の入口としてこの映画に触れるのは良いことだと思う。
それはたくさん出ているアルバムの何から聴いたら良いか分からないファンが、最初にベスト盤を手にするのに似ている。そこで気に入った曲があれば、アルバムに手を出せばいいのだから。
同じように、この映画をきっかけにオリジナルアニメを観てみようと考えるファンが出るのなら、そこに、今作の存在の意義はあろう。たとえ、それが電脳化された別人格だとしても……
そうであるなら、これはこれで成功である。
でも、僕はもう観ないかな
2017 4.14 4DX3D吹替版にて鑑賞
もう観ないって書いたけど、田中敦子さんの声で観たかったので、せっかくだから4DXで鑑賞した(笑)
やっぱり、田中敦子さん、大塚明夫さん、山寺宏一さんの声で観るとオリジナルの雰囲気が出てきて、それだけでスコアのポイント上がっちゃった\(^o^)/
映画自体の評価は変わりません……