YusakuGodai

ガタカのYusakuGodaiのレビュー・感想・評価

ガタカ(1997年製作の映画)
4.0
 モチーフの対称性と、その対位法が織りなす旋律が、この上なく修辞的に美しい。
 ミクロ(冒頭のカット、DNA)とマクロ(ラストカット、宇宙)、固体(砂浜、グラス、建築)と液体(海、ワイン、血液)と気体(霧、煙草、タイタン)、赤(血液、炎)と青(目の色、海)と黄(尿、夕焼け)、四角(窓、机、冷蔵庫)と丸(螺旋階段、鏡、車いすの車輪)、ヴィンセント(遺伝的に劣位、夢と恋愛の成就、近視のため車に轢かれないように必死に道を横断、宇宙飛行士=宇宙へ飛び立つ)とジェローム(遺伝的に優位、夢と恋愛の断念、シラフで車の前に飛び出て自殺未遂、元水泳選手=プールへ飛び降りる)、爪と皮膚と毛髪、日暮れと夜明け、等々。
 
 映画は、映画が描こうとする世界に対し、空間的に、時間的に、体験的に、ハンデを抱えている。たった2時間の映像体験は、普通、我々が生きるこの世界の長大さ、広大さ、リアルさに、かなうはずがない。ではどうすればいいか。
 
 螺旋構造が印象的なグッゲンハイム美術館を連想させる、本編の舞台であるガタカ社の社屋は、美術館と同様フランク・ロイド・ライトによって設計された実在の建築である。フランク・ロイド・ライトは、アメリカの建築界においてモダニズムを牽引し、「近代建築の三大巨匠」の一人とされている。その三大巨匠にもう一人を加えた「近代建築の四大巨匠」に、四人目として加えられる建築家が、ドイツのモダニズム建築の第一人者、ヴァルター・グロピウス。彼の創立した総合造形学校バウハウスで教鞭をとり、理論と実践の双方で業績を残した画家パウル・クレー、彼の試みに、上記の問いに対する答えのヒントがある。

 パウル・クレーの絵画作品は、彼の父親が音楽の教師、母親がオペラ歌手であり、自身もヴァイオリンに親しんだということからも明らかなように、音楽と深い関係がある。実際「ポリフォニー」という音楽用語がタイトルに入れられることがあり、彼の絵画は平面における音楽―とくにポリフォニー=多声音楽―の実現、ともいえるだろう。
 自然や人物の形態を幾何学的なシルエットとして捉え直し、色を分離し、画面を分離し、筆のタッチを点・線・面という単位に変換して、キャンバス上に再び統合する。風景の解体、編集、統合。バラバラに解体されたモチーフの、一つひとつの欠片がいくつもの声部に編集され、それらが絡まり合うことで、全体が旋律として再統合される。クレーは、「ポリフォニー」を、絵画で演奏したのだ。

「芸術とは見えるものを表現することではなく、見えないものを見えるようにすることである」―クレーの芸術観は、「ポリフォニー」の可能性を雄弁に語る。バラバラになったモチーフの欠片を構成し直すと、そこには本来見えないはずの何かが立ち現れる、聞こえないはずの旋律が聴こえてくる、クレーは、その可能性に賭けたのだ。そうして生み出される美しさは、たとえば人形の不気味さ。シンプルな要素を組み合わせただけの、何気ない小さな人形が醸し出す、不気味な存在感、それもまた見えるはずがない何かである(ちなみにクレーは大の人形好きであった)。

 このことはまた、フランク・ロイド・ライトの建築とも響き合う。ライトは自然と調和する「有機的建築」を標榜したが、その手法は、それまでの古典的な建築のように自然を模した装飾を施すという方法ではなく、自然の中の要素を取り出し、抽象化して再構成する、というやり方であった。たとえば、滝の上にまたがるように建てられた、ライトの代表作「落水荘」では、垂直に落下する水と岩に堰き止められ水平に飛び出す水が、それぞれ垂直と水平に伸びる、素材の異なる二つの部材によって表現されている。また「ジョンソンワックス本社ビル」は、先が丸く広がった円柱が幾重にも林立して天井を支え、隙間から照明がこぼれるその内部の光景が、あたかも森の中、大木の葉の隙間から光が差し込む様を思い起こさせる。幾何学的でシンプルな要素を組み合わせるだけで、本来見えないはずのもの―滝の流水の躍動や木間の日差し―が、幻影のように立ち現れてくるのだ。
 
 映画は、幻影でなくてはならないと思う。映画は、それが描き出そうとする世界よりも、ずっと小さく限られているからだ。映像を超えた映像―つまり幻影―を、映画は映しださなくてはならない。
 そのための手法は、クレーとライトの試みにヒントがある。世界を、一度シンプルで抽象的な要素に分解し、編集、再構成して、そこに本来見えないはずのものを立ち上げること。そこに映し出される幻影に、賭けること。
 あるいはそれは、文章における修辞だ。詩やラップの押韻は、聴こえないはずの旋律を奏で、メロディー以上のグルーブを生み出す。メタファーは、物語に意味を重ね書きすることで、意味の厚みを生み出し、メトニミーは、イメージの連想というブリッジを物語に掛けることで、時系列や意味を超えた連なりを生み出す。修辞は、言葉が言葉を超えるために、鍛え上げられてきた文章技法なのだ。
 考えるべきは、映画の修辞学である。

 様々なモチーフが美しい対称性を伴って分離・解体し、その欠片がある程度の独立を保ったままに再構成される。クレーの「ポリフォニー」、ライトの「有機的建築」に通ずる、映画『ガタカ』の修辞は、仮に名付けるとすれば、ポリフォニーの一つである「対位法」だ。その旋律の美しさを根拠に、この映画を、映画の修辞における一つの達成と位置づけたい。
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