YusakuGodai

ラストレターのYusakuGodaiのレビュー・感想・評価

ラストレター(2020年製作の映画)
3.7
映画『ラストレター』評
― デジャブ、走馬灯、反復、映画―



「デジャブ」。はじめて経験したことなのに、まえに一度、どこかで同じような経験をしたかのような錯覚を覚えること。はじめて見る風景のはずなのに、かつて、いつかどこかでおなじ風景を目にしたような気がすること。そういう体験を、ぼくたちは「デジャブ」と呼ぶ。
「デジャブ」とは、言い換えれば、反復の錯覚だ。過去の経験が現在において蘇り、反復する―という錯覚を覚えること。反復は、本来は起こりえないことである。まったくおなじ条件の世界が二度、目のまえに現れるということが、確率上ほとんどありえないからだ。だから反復は、錯覚である。「デジャブ」という体験において僕たちは、たんに過去とよく似た現在を、過去と見間違えているだけにすぎない。
 しかし、たとえ錯覚にすぎないとしても、「デジャブ」は、ぼくたちにとって特別で、貴重な体験である。たとえば毎朝目が覚めた時に見上げる天井の景色、毎日ほとんど変わらないはずなのに、これは「デジャブ」だとは感じられない。あるいは、単純な「懐かしさ」も「デジャブ」とは違うだろう。「デジャブ」は、めったに出会えない、というのは言いすぎだが、少なくとも日常的な体験ではない。それは、ごくたまに、そして唐突に訪れる。なんの予告もなく突然訪れ、そしてぼくたちに特別な印象を残していく。
 たとえるならば、それは、ふいにだれかに呼び止められるような感覚だ。ふいにだれかが、背後から自分に向かって、なにかをささやく。だれだろう。振り返り、人影を探す。でもたいていの場合、声の主の姿はすでにどこかへ消えて差ってしまっていて、見つけることができない。誰かによって呼び止められたということ、その感覚だけが残る。
 ぼくたちはそのように、「デジャブ」に気づいても、多くの場合、それが何の反復(の錯覚)なのか、突きとめることができない。目の前の風景を、いつ、どこの風景と見間違えてしまったのか、自分でもわからない。ただ、反復の錯覚という事実と、その体験の感触を受け取ることしかできない。それはただ、風のように通りすぎる。「デジャブ」とは、そうした儚い体験である。



「デジャブ」は、「現在」を「過去」と空目する体験だ。その体験においては、「現在」の風景が、まるで「過去」の風景の反復のように知覚される。では、その逆はどうだろうか。「過去」の風景が、あたかも「現在」の風景のように知覚されるような体験。つまり、「デジャブ」における「現在」と「過去」の反転。それはどのようなものだろうか。
「走馬灯」が、その体験にあたるのではないかと思う。
走馬灯は、もともとは回り灯篭ともいい、灯篭のことを指す言葉である。二重の構造を持った灯篭で、人や馬の形にくりぬいた紙が貼られた内枠と、その影をスクリーンのように映す外枠、そして中心のロウソクでできている。ロウソクの炎によって起きる上昇気流が、灯篭の上部の風車を回転させると、それによって内枠が回り、外枠のスクリーンに、回転する人や馬の影が映し出される、という仕組みである。スクリーンに映る映像が、あたかも人や馬が走っている様に見えるため、「走馬」灯、というわけだ。
 人は死ぬ間際、自らの人生で見てきた情景を、一瞬のうちにもう一度見るという。ある種の極限的な状況の中で、瞬間的に、それまでの人生で蓄積されてきた記憶が、いっぺんにフラッシュバックし、目の前に蘇る。ぼく自身は経験がないのだが、これまでに書籍等で読んできたいくつかの体験談によれば、実際にそのような体験は存在するようである。たとえば山での滑落事故の例。事故から奇蹟的に生還したある登山家の話によると、岩壁から滑り落ち、体が止まるまでの短い時間に、落下の勢いで命綱を支えるためのボルトが次々と抜けるのを感じながらも、脳内では、幼少期から今までの記憶の情景が次々と再生されていた、という。死の直前、めくるめく記憶の情景の連なりが、目前にあらわれること。僕たちはそれを、ろうそくで照らされた和紙の上をぐるぐると駆け巡る人馬の影になぞらえ、「走馬灯のように」という修飾語で表現する。あるいは、その体験自体を「走馬灯」と呼ぶ。
「走馬灯」において蘇る風景は、どれも自分がかつて経験したことや、見てきた風景である。それらが、いま、視界の中に次々と現れる。それはつまり、「過去」の風景が、「現在」において反復、再生され、「現在」の視界の中で捉えられる、ということである。反復の体験、という点では「デジャブ」と同じだが、「現在」と「過去」の関係が対になっている。
「デジャブ」は「現在」を「過去」と空目する体験。「走馬灯」は「過去」を「現在」と空目する体験。二つは、「現在」と「過去」の反転した、しかし共通して反復性を伴う体験である。



 もともとの意味である、灯篭としての走馬灯は、灯りであると同時に、影絵の装置であった。それも、回転し、動く影絵の装置である。「走馬灯のように駆け巡る」という文句もあるが、文字通り、人や馬の影は、たんにスクリーンに投影されるだけでなく、ろうそくの火によって回転し、スクリーンを駆け回るのである。その様は、ある洞窟の壁画を連想させる。
 一九九四年に発見された、フランス南部のショーヴェ洞窟だ。有名なラスコー洞窟よりもはるかに古く、三万二千年前のものと推定されている。ショーヴェ洞窟の壁面に描かれた牛やライオンの絵。よく見ると、それら動物の絵の輪郭は、まるでアニメのセル画のように、一コマ一コマ動きを分けて描かれているのがわかる。そう、実のところ、その絵は、暗い洞窟の中でゆらめく松明に照らされると、映画のスクリーンのようにゆらゆらと動いて見えたというのである。つまり、最も古い絵は、はじめから映画であった。洞窟先史学者マルク・アゼマは、この壁画を描いたクロマニョン人たちを、「ホモ・シネマトグラフィクス(運動を描くヒト)」と呼ぶ。人々は、洞窟で歌い踊りながら、同時に映画を見ていたのだ。※1
 洞窟の壁画が映画であるように、走馬灯という装置も、映画であった。あるいは、映画は、体験としての「走馬灯」とよく似ている。映画監督・山戸結希が、あるインタビュー ※2 でそのことについて話している。

「人類が誕生してから一番最初にある芸術はなんだろうって考えたことがあって。宇宙の中で人間が生まれて、きっと一番最初に生まれた芸術は音楽で。人が生まれた瞬間に産声を上げるんですよね、きっとあれが歌で。死する時には走馬灯を見るじゃないですか。それってきっとシーンの連なりで。あの世があるかわからないですけど、あの世から私たちを見るのも、スクリーンを通すみたいな感覚かもしれなくて。きっと人類の最後の芸術は映画なんだってことを、いつからかすごく思うようになって…」

「走馬灯」は映画に似ている。それはともすると、「走馬灯」と記憶が、そして記憶と映画が似ているからなのかもしれない。人は記憶を持たずに生まれてくる。人生を送る中で、記憶は蓄積される。蓄積された記憶は、死の間際に溢れ出す。溢れ、駆け巡る記憶は、つまり「走馬灯」は、映画という形で表現される。何万年も前から続く、「最後」の芸術、映画。さらにそれは、もしかしたら死後の芸術でもあるのかもしれない。



 映画『Love Letter』※3 。冒頭、主人公の渡辺博子が、婚約者であった藤井樹の三回忌(藤井は雪山の遭難事故で亡くなった)のために、彼の墓のある小高い山に訪れる。ファーストカットは、雪の上に寝転んだ博子を捉えたカット。はらはらと雪の舞う中、博子は、目をつむり、息を止めている。まるで死んでしまったかのようだ。しばらくすると、彼女は「ハッ」と息を吐き出し、立ち上がる。服についた雪を払って、上を見上げる。一瞬再び目をつむり、開ける。周りを見渡すようにゆっくり視線を動かす。そして、彼女は山を下りていく。
 この一連のシークエンス ※4 におけるカメラの動きを見てみる。ファーストカット、寝転ぶ博子を捉えたショットは、カメラが博子の真横に位置している。まるで彼女の傍で一緒に寝転び、彼女の横顔をじっと見つめるように、カメラは低位置に固定されている。次に、立ち上がり、上を見上げる博子に対しては、今度は、真横の位置から少しずつ上の方へと、浮き上がるようにしてカメラが移動していく。そして、山を下りる博子に対しては、カメラはかなり高い位置にあり、ほとんど真上から彼女を見下ろすようなアングルから始まって、少しずつ上向きにパンしつつ引いていく。一連のカメラワークは、観客の想像力を掻き立てる何かがある。たとえばそう、雪山に眠っていた何かが、博子と一緒に目を覚まし、動き出す、そんな想像をしてしまう。
『Love Letter』は、死者である藤井樹の目線で描かれた映画なのではないか。何度か鑑賞するうちに、ぼくは、そう考えるようになった。『Love Letter』は、藤井樹の幽霊を視座とした、幽霊の一人称映画ではないか。繰り返し見る中で、ぼくはその見方に、自分の中で確信を高めていった。もちろん、製作者がどの程度意図していたかはわからない。ただ、そのような解釈も十分に可能だ、ということである。
『Love Letter』は、幽霊・藤井樹を視座とする映画である。そう仮定すると、あの映画は、藤井樹が幽霊となり、同姓同名の女性の藤井樹を介して渡辺博子に別れを言い、そして渡辺博子を介して女性の藤井樹にかつて届けられなかったラブレターを届ける映画、と要約することができる。映画のラストでは、樹(女)が、樹(男)から届けられたラブレターを自分だけの秘密にすることを心に決める。美しいラストだが、しかし死んだ樹にも、彼女の微笑みを確かめることくらいはできてほしい、とも思う。それならいっそ、映画全体を、死んだ樹の目に映る映像として、見たい。そういう個人的な気持ちも込みで、ぼくはこの映画を、死者の視座から見てしまう。



『Love Letter』を監督した岩井俊二による、最新作『ラストレター』※5 。『Love Letter』と同様、死者を取り巻く人々の物語で構成されている。ぼくはこの作品についても、『Love Letter』と同じように、死者である遠野未咲の目線から見てみる。未咲はすでに自殺しており、スクリーンの中には、現在の未咲は登場しない。だから、スクリーンの外側、つまりカメラの位置に未咲を置いてみたい。そして、映し出される映像を、未咲の見る映像として受け取ってみようと思う。
 登場人物の中で、ぼくはとくに、広瀬すず演じる遠野鮎美/遠野未咲と、森七菜演じる岸辺野颯香/遠野裕里に注目した。この二人は、『Love Letter』で中山美穂が演じた渡辺博子/藤井樹と同じく、一人二役を担っている。中山美穂は容姿がそっくりの別人を演じたが、広瀬すずと森七菜は、現在の従姉妹と、それぞれの親の幼少時代を演じる。現在と回想、二種類のシーンにまたがり、異なる人物を演じることになる。
 現在のシーンと回想のシーンは、もちろん時間的な違い(回想シーンは、未咲と裕里の中学時代)もあるが、そのシーンを見ている視点人物の「状態」も異なる、と考えたい。今回の見方では、視点人物はいずれも未咲である。とりあえず二種類のシーンは、どちらも未咲が見ている映像、とする。しかし、その二種類のシーンは、おそらく微妙に異なる。現在のシーンは「死後」の未咲目線だが、回想のシーンは「死の直前」の未咲目線なのだ。つまり、「幽霊」としての未咲と、「臨終」の未咲。この二種類の状態と考えたい。
「幽霊」としての未咲は、現在の二人の少女の光景に、自らの過去の光景の反復を見る。自分たちと同じ容姿の二人が、自分たちと同じように一緒に生活し、同じように恋をしている。それはつまり、まるで自らの過去のように現在を見るということ。あるいは、現在が過去に見えるということ。その体験は、「デジャブ」と表現することができるだろう。
 一方「臨終」の未咲は、死の直前の一瞬、自らの記憶の中にある過去の光景が、ふいに蘇り、自らの心の中に再び映し出されるのを見る。かつて自分たちが過ごしていた日々や、見ていた風景を、まるで目の前にあるかのように、もう一度見てしまう。それはつまり、まるで「現在」目の前にあるように、「過去」を見るということ。あるいは、「過去」が「現在」に見えるということ。それはつまり、「走馬灯」である。
『Love Letter』は、「幽霊」の見る「デジャブ」と、「臨終者」者が見る「走馬灯」によって構成された映画である。そのような想定のもと、作品を見たいと思う。



 冒頭とラストの滝のシーン。冒頭の「滝見たことある? 私初めて」「僕はあるよ。夢の中で」といった会話からもわかるように、これらのシーンは、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の 割れても末に あはむとぞ思ふ」(崇徳院)や「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」(小野小町)等、悲恋を描いた和歌を思い起こさせる。叶わぬ恋の成就を、夢や来世といった現実を超えた場所において見出す。そうした超現実的な想像力が、「滝」という場所と結びつくのは、不思議と納得できるところがある。
 ラストの滝のシーンでは、『Love Letter』の冒頭のように、空撮が用いられている。ただしカメラの動き方については、『Love Letter』では、はじめ至近距離からスタートし、少しずつ上昇して対象から離れていくのに対し、本作のラストでは、上流の方から移動して滝へ近づいていき、その後至近距離へと移行する、という動き方になっている。どこかから帰還し、そして降り立つように、カメラは空から地面近くに移動し、滝の下に立つ広瀬すずの横顔へとレンズを向ける。
 さて、この時広瀬すずは、いったい誰を演じているのだろうか。順当に考えれば、このシーンは冒頭のシーンと繋がっていると考えられるから、広瀬すずは、未咲の娘である遠野鮎美ということになる。しかしどうだろう、ぼくにはこの少女が、どうしても未咲の過去の姿にも見えてしまう。ちょうど現在の鮎美と同じくらいの年の、中学生の未咲の姿に。このシーンの直前に、過去の中学時代の未咲の姿が回想シーンとして映るため、それに引っ張られるというのもあるだろう。
 思い切って、このシーンにおいて、広瀬すずは、遠野鮎美と遠野未咲の二人を同時に演じている、と考えたいと思う。あの少女は、遠野鮎美であり、同時に遠野未咲でもあるのだと。そして、そのことはすなわち、あのシーンにおいて、現在のシーンと回想シーンが混ざり合っているということを意味する。「現在」と「過去」が溶け合い、鮎美と未咲が重なり合って、あのシーンはできているということだ。
 現在のシーンと回想シーンが重なるということは、また、それらのシーンを見る視座が重なることも意味する。本作においては、現在のシーンを死後の「幽霊」としての未咲の見る「デジャブ」、回想シーンを死の直前の「臨終」の未咲の見る「走馬灯」として考えてきた。であれば、あのシーンの視座は、二つの視座、つまり「幽霊」の視座と、「臨終者」の視座が重なることになる。未咲は、死後でありつつ、死の直前でもある、奇妙な状態で、あのシーンを見ている。



 滝の下の少女の横顔を捉えたラストシーン。あのシーンは、まず、カメラがレンズを向ける対象である広瀬すずが、鮎美と、中学時代の未咲の二人を同時に演じている。また、カメラの視座である未咲が、「幽霊」と「臨終者」の両方の状態である。「現在」と「過去」が溶け合い、死後と死の直前が混ざりあい、そして「デジャブ」と「走馬灯」が重なる瞬間。あのシーンは、そうした複雑な重なりあいの瞬間を、映しているのである。
 ラストシーンにおいては、様々な対立項が一瞬の光景の中に圧縮され、重ねあわされる。一種の光景の中で、対になる二つのものが、一つになるのである。もちろん、あくまでもそれは、いくつかの仮定を前提とした場合の論理的帰結にすぎないのだが、しかし、感覚的に整合する部分もある。あのシーンを見た時、ぼくは何か、映画全体が一つの光景の中に収斂していくような、そういう奇妙な感覚を覚えた。その感覚は、上記のように、いくつかの対立項の重ね合わせとして、ある程度理解できるのではないかと考えている。
 また、ラストシーンではもう一つ、感じた感覚がある。言葉にするのが難しいが、あえて言えば、それは何か、身体の輪郭がふっとほどけるような、そういう感覚だ。自分の身体に、微妙な揺らぎのような感覚を覚えたのである。しかし、それはどういうことなのか。以下のように考えることもできる。
 映画を見るという体験は、基本的には、カメラの視座と自らの視座を同一視させることで成り立つ。つまり、カメラマンの視座に乗り移ることで、はじめて映画を映画として(現実ではなく制作物として)見ることができる。本作の視座は未咲だ。僕は未咲の視座を借りて、映画を見た。
 ほとんどのシーンは問題ない。現在のシーンと回想シーンとで未咲の視座は切り替わるが、僕の視座もそれに合わせてどちらかに変化するだけである。
 しかし、ラストシーンだけは、混乱を覚える。ラストシーンは、繰り返すように、「幽霊」と「臨終者」の両方の視座が重なりあっている。これはどういう状態か。仮に「幽霊」を半分生者の死者(生者のような視座を持つ死者)、「臨終者」を半分死者の生者(死にゆく生者)としよう。ラストシーン、重なりあった未咲の視座は、半分「半分生者の死者」、半分「半分死者の生者」になる。結果として、未咲の視座、そしてそれに乗り移ったぼくの視座は、生者と死者の間で複雑に揺らぐ。「幽霊」と「臨終者」はもともと生死の間を揺らぐ存在だが、さらにその両者の間でも揺らぐのである。未咲とともに、つかの間、生の輪郭と、死の輪郭を失う。感じたのは、その感覚である。



 そういえば、ラストシーンで、少女は何か振り向くような動きをしている。あれはなんだったのだろうか。ぼくには、あれは、何かに気付いたような仕草に見えた。しかし、何に。
 ぼくは思うに、彼女は、何かの「反復」に気づいたのではないか。自分の生が過去の何かの繰り返しであると。あるいは、自分の生が、思い出され再生された過去そのものではないかと。つまり、自分自身が「デジャブ」や「走馬灯」として映し出されるイメージ、それそのものではないか、と。
 であるならば、その気付きはまた、自らの「反復」の片割れの存在への気付きをも意味することになるだろう。自分に似た誰か、あるいはもう一人の自分が、自分を見ている、という直観。その眼差しの主は、もちろん未咲―少女を自分によく似た娘・鮎美として、自らの「デジャブ」として見る「幽霊」の未咲と、少女を中学時代の自分として、自らの「走馬灯」として見る「臨終」の未咲―である。
 少女は、未咲の姿を見つけようと、後ろを振り返る。振り返る少女の横顔を、カメラがスローモーションでとらえる。そして、ラストカット。少女の顔は画面にない。ただ、川沿いの真っ暗な森だけが、映し出される。
これをどう解釈すべきか。現時点では、こう考えている。
 真っ暗な森は、未咲の見た死の情景である。それは、「デジャブ」でも「走馬灯」でもない。つまり、「幽霊」や「臨終者」の見た風景ではない。「死後」と「臨終」の間に見る、「デジャブ」でも「走馬灯」でもない真っ暗な景色。振り向いた少女は、その暗闇の中に、未咲の影を探す。
 少女はおそらく、未咲を見失った。しかし、ラストカットの視座、これを未咲と少女、二人の視座が重なったものと見れば、ある意味で二人は出会えている。「反復」の消失か、あるいは「反復」の完全な重なりあいか。片割れとの別れか、あるいは出会いか。まだ答えがうまく出せない。映画の「最後」を、ぼくはまだ、何度も繰り返し思い出すことになるだろう。
 
※1 石田英敬・東浩紀『新記号論』(ゲンロン、2019年)を参照
※2「映像作家の世界・山戸結希スペシャルインタビュー」
(URL: https://www.youtube.com/watch?v=Ih4PsR6qk50)
※3 岩井俊二監督『Love Letter』(フジテレビジョン、1995年)
※4 冒頭の一連のシークエンスは、Youtube上で公式に公開されている動画で確認することができる。「Love Letter(プレビュー)」
(URL : https://www.youtube.com/watch?v=tSgtsxLBUks)
※5 岩井俊二監督『ラストレター』(東宝、2020年)
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