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パラサイト 半地下の家族のYusakuGodaiのレビュー・感想・評価

パラサイト 半地下の家族(2019年製作の映画)
3.9
 ポン・ジュノ監督と濱口竜介監督との対談※1 を面白く読んだ。

 記事では、『パラサイト』のストーリーの元になったポン・ジュノ自身の体験談など、なるほどと思える部分がいくつもあるのだが、その中でとくに、ポン・ジュノがかつてより濱口竜介作品のファンで、『寝ても覚めても』を高く評価しているという部分が、個人的には「おっ」と思った。両監督1作ずつしか見ていないのであまり迂闊なことは言えないが、しかしどことなく『パラサイト』の雰囲気は、(後から考えると)『寝ても覚めても』の雰囲気と、どこか通底する部分があるように感じる。ポン・ジュノが『寝ても覚めても』について評価する「表面下で持続する巨大な緊張感・不安感」というポイントも、『パラサイト』と比べながら考えると、納得ができるところがある。もちろんお互い、直接的な形での影響関係はないと思うのだが、それでも両作を並べて考えてみると、違った視点から見えてくることはありそうだ。

 濱口竜介もポン・ジュノに負けず劣らず、相手の監督作品を高く評価している。注目するポイントが面白い。後半部、坂の上の豪邸から雨の中、半地下の家族が自分たちの家へ向かって住宅街の階段をくだっていく場面。ここで下降のクレーンショットが用いられるのだが、このカメラワークについて濱口は、「僕はこれほどまでに、カメラワークという「形式」と「主題」が完全に一致した瞬間を見たことがないような気がしていて、本当に素晴らしいショットだと思いました」と語っている。「形式」と「主題」の一致とは、つまり「表現」と「内容」の一致ということだろう。別の言い方もしている。「ポン・ジュノ監督がやっていらっしゃることというのは、実は僕が映画をつくる上で、最初から諦めてしまっていたことでした。強靭なショットを撮り、しかもそのショットをストーリーテリングの中に何ら過不足なく埋め込んでいく素晴らしさ——こういうことをできている人は今、ほかにいないんじゃないだろうか、と思っています」——「強靭なショット」という「表現」を、「ストーリーテリング」という「内容」の中に過不足なく埋込み、融合させること。つまり、「表現」と「内容」の直結、一致。それが濱口の理想であり、その達成例として『パラサイト』を賞賛するのだ。

「表現」こそが映画の武器だと思う。『パラサイト』がアカデミー賞で作品賞を獲ったのも、やっぱり映画そのものが面白かったり、あるいは美しかったする、というのが一番大きいのではないかと、想像でしかないが思うのだ。作品が扱う「内容」の政治的なクリティカルさや、外国の映画が作品賞を獲るということの政治的意味もあるのかもしれないが、それでも大前提として、映画の「表現」としての圧倒的な強さがあったのではないか。韓国からアメリカへ、そして世界中へ広がっていった『パラサイト』旋風の推進力は、まず第一に、「内容」ではなく「表現」にあったと僕は思っている。

 さて、『パラサイト』のすごいところは、濱口監督の注目したワンショットに端的に表れている通り、「形式」と「主題」の一致である。あるいは僕なりに言い換えれば、「表現」と「内容」の一致、もしくは直結である。『パラサイト』は「表現」をエンジンにするが、その「表現」は、二段ロケットのように切り離されることはなく、「内容」と合体したままで飛び立っていく。どちらかが目的に、どちらかが手段になることがない。2つが分かちがたく結びついたまま、観客に届けられる。芸術のひとつの理想形といっても良いと思う。

「内容」という目的のために「表現」という手段が用いられる、というケースは多い。極端な例は、プロパガンダや広告である。特定のメッセージを的確に伝達するために、様々なデザインのメソッドが動員される。そこでは「表現」は、あくまで「内容」に従属する、「内容」の道具である。

 逆もある。僕は書道をやっているが、書道という芸術分野の興味深い点は、基本的に「表現」が「内容」に先行していることである。たとえば、過去の古典作品の一部を真似て書くという、書道の代表的な形式である「臨書」形式。この形式において作者や鑑賞者は、主に、その作品が古典作品の文字の筆致をどのように解釈し、再現し、そして紙の中に収めているか、という点に注目する。つまり、どう「表現」されているかに注目する。しかし一方で、作品で書かれている文章そのもの、つまり「内容」の部分については、ほとんど気を配られたり言及されたりすることがない。「表現」が「内容」に優先するのだ。ここでは割愛するが、その他の書道の形式においても同様である。少なくとも現代においては、書道という芸術ジャンルは、「内容」に対して「表現」に比重を重く持つジャンルである、といって良いと思う。

 作品における「内容」と「表現」のヒエラルキーは、わかりやすく(なるかはわからないが)言い換えれば、食品における「食材」と「調理」のヒエラルキーである。「内容」に重心のある作品と「表現」に重心のある作品とがあるように、「食材」偏重型の食品と、「調理」偏重型の食品、というものが考えられる。たとえば僕たちはうまいトンカツを食べた際、「この豚肉うまいな」と思う時もあれば、「うまく揚がってるな」と思う時もある。この際、前者の体験の場合は、「食材」に注目しているため「食材」偏重型、後者の体験の場合は、「調理」に注目しているため、「調理」偏重型といえる。作り手の側からいえば、まず最初に「いい豚肉」があって、そのうえでそれを食べるための調味料や調理法を手持ちの選択肢から選ぶのが、「食材」偏重型。まず第一にこだわりの味付けや調理法があって、そのうえで手近な豚肉を選んで調理するのが、「調理」偏重型。「食材」と「調理」でどちらがどちらに優先し、どちらがどちらよりも大事なのか、という基準で作品を区分していくことができる。

 が、時に「食材」と「調理」を区別できないことがある。つまり、うまいトンカツを食べた時に、ただたんに「このトンカツうまいな」とだけ思う、という場合である。この場合は、いま口にしているトンカツの「うまさ」が、「食材」の「美味さ」によるものなのか、それとも「調理」の「巧さ」によるものなのか、どちらか判断することができない。「食材」と「調理」は分かちがたく結びついて、溶け合っている。食べた時に感じるのは、ただ「うまい」という純粋な感触だけである。

 濱口監督が『パラサイト』について言っていることは、要するにあの映画は、「美味い」と「巧い」が一致して「うまい」になっているからすごい、ということではないかと思う。「美味い」と「巧い」のどちらか片方に比重があったり、2つが分離していたりということがなく、完璧に重なり合っている。そんな映画ないと思っていた。でも、あった。この世には、ただただ「うまい」トンカツというものが存在していたのだ。あえてトンカツの比喩を使えば、そういうことになると思う。

 僕は、濱口竜介の意見に同意する。『パラサイト』の面白さは暴力的だ。「映画とはここまで面白くなくてはならないのかと、一監督として途方に暮れた」※2 と濱口竜介もコメントを寄せた。客の箸の手を止めさせない、何か強力な力を持った作品で、その力の見境なさは、あの作品のジャンル横断的な性格にも表れている。そして、暴力的な美味に巻き込まれるようにして食べ進めるうちに、いつの間にか、自分が魅了されているその味が、「食材」そのものの味によるものなのか、それとも「調理」の過程で加味された調味料の味なのか、もはや区別することができなくなっているのに気づく。「食材」と「調理」、「内容」と「表現」はがっちりと繋がっていて、容易に選り分けることはできない。2つが一体となった、ただただ「うまい」食品、あるいは「面白い」作品が、目の前に存在するだけである。

 というわけで『パラサイト』はほとんど完璧な映画で、いたって凡庸な舌を持つ僕には、否定できるところなどどこにもない。そう断ったうえで、ただあえて一点だけ、冒頭の記事に引き付けて書き残しておきたい。『パラサイト』と『寝ても覚めても』の2本であれば、僕は個人的には、『寝ても覚めても』のほうを気に入っている。気に入っているし、僕にとって大事な作品でもある。2つの作品の違いはいろいろあるが、このレビューで使った言葉でいえばこういうことになるだろう、『パラサイト』は「食材」と「調理」とが完璧に一致しているが、『寝ても覚めても』は、微妙にずれている。そのずれについては、たとえば社会学者・宮台真司は批判点とする※3 が、僕は逆にそこがいいと思った。完璧な味付けではないけれど、しかし少し変わった、よく知らない不思議な調味料の香りが微かにする。その香りが鑑賞後もずっと漂っていて、僕をよくわからない、どこか別の場所に運ぶような気がするのだ。

※1 https://www.cinra.net/news/20191025-parasite
※2 https://www.houyhnhnm.jp/feature/313802/
※3 https://realsound.jp/movie/2018/10/post-259234.html
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