YusakuGodai

涼宮ハルヒの消失のYusakuGodaiのレビュー・感想・評価

涼宮ハルヒの消失(2010年製作の映画)
4.1
 以前1話だけ見てそのままだったハルヒシリーズだが、「いいから『消失』まで見てみろ」というオタクの言葉を信じて、ニコニコの無料公開期間に、第1期、第2期、そして映画と、一通り鑑賞してみた。非常に良かった。コメントに助けられたのもあると思う。妙に殺風景な部室の風景も、それを埋め尽くすコメントをあらかじめ想定していたとさえ思える。画面の隅に描き込まれた些細なヒントや、人物の微妙な表情の変化などを、コメントを頼りに逐一確認しながら見進めることができたため、作品全体から受け取る情報量も、ふつうのアニメ鑑賞とは比べ物にならないほど、濃密であった。

 また、薦めてくれたオタクは長門推しだが、『消失』まで見たことで、その意味もよくわかった。第2期の放送順での最終回の前の回は、長門がフューチャーされる異例の回だったが、『消失』ではそこからさらに、内容的にも深い部分で長門が物語に関わり、強い印象を残している。もはや『ハルヒ』とは、ハルヒやキョンではなく、長門のためのアニメなのではないか、とさえ思えてきてしまう。

 さて、エンドロールが流れた後、映画には最後に、短いシーンが差し込まれている。映し出されるのは、もちろん(というべきか)長門である。そこで長門が取るある仕草について、ネット上では様々に解釈がなされているようだが、僕としては、これをある種の「反復」のようなものとして捉えることができるのではないかと思っている。何の「反復」か。もとの世界と長門によって変えれらた世界、2つの世界において、長門とキョンが部室で出会う際、長門が取る仕草の「反復」である。

 もとの世界と変化後の世界、両方の世界で、長門はキョンと出会った際に同じ仕草を取っている。キョンに尋ねられて取る、例のあの仕草である。映画の最後、長門は再びそれらと同じ仕草をする。そこでは、3つの仕草が「反復」している。時間軸上の過去の自分の仕草、可能世界におけるもう一人の自分の仕草、そして現在の自分の仕草である。『涼宮ハルヒの憂鬱』は、時間軸=縦軸の移動・変化と、世界そのもの=横軸の移動・変化の両方が描かれている、まさにハルヒ特製鍋のようなごった煮のSF作品であるが、その縦横の2つの軸は最後、「反復」によって、あのほんの些細な仕草一つの中に、スッと綺麗に収斂していく。長門有希という人物の慎ましく凛としたキャラクター造形とも相まって、抑制された情緒の漂う素晴らしいシーンだ。

 少し話は飛ぶが、僕のもっとも好きな映画のひとつ、岩井俊二監督『Love Letter』もまた、縦軸、横軸の2種類の「反復」が描かれた映画として見ることができると思う。縦軸は、容姿の酷似した渡辺博子と藤井樹で、横軸は、同じ名前を持つ男性の藤井樹と女性の藤井樹。それぞれの軸における反復や同期を利用して、ある者は過去と出会い、ある者は未来へと歩み出し、ある者は叶わなかった思いを届け、ある者には思いもよらぬものが届く。「反復」が、手紙の誤配のようにして、別の形での救いをもたらす、そういう映画である。

 また、前回のレビューでは、同監督『ラストレター』についても、「デジャブ」と「走馬灯」という2種類の「反復」を軸に、自分なりの解釈を試みた。さらにそこでは、映画もまた同様に「反復」を福音とする芸術である、というメッセージを込めた。『涼宮ハルヒの消失』『Love Letter』『ラストレター』いずれも、作品から受け取るのは同種の福音である。これらの作品は、いずれも「反復」による福音を描く。同時にその構造が、「映画」や「フィクション」、つまり僕たちのいる現実世界や僕たちの人生のもう一つの別の可能性=「反復」の構造を模している。つまり、フィクションでありつつメタフィクションとしても、成立している。あるいは、捉えようによっては、そう捉えることも十分できる(『Love Letter』『ラストレター』は置いておくとしても、少なくとも『ハルヒ』については、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』など、メタフィクション的な読みがなされる例がある)。

「デジャブ」や「走馬灯」、「可能世界」、「反復」、あるいは「ドッペルゲンガー」や「シュミラークル」、どんな呼び名でも良いが、とにかくそういった、何か一つの固有なものの周りにある、それとよく似たものやコピーを、救いの契機として、福音として描く作品群がある。それらは、「フィクション」というもの、そのものを自己言及的に描いていもいる。僕はそういう作品が好きだ。自分がまさに今、目の前の本やスクリーンで「フィクション」を享受しているということの意味を教えてくれるからだろうか。

 長門は映画の最後、目線をこちらに向ける。登場人物の中でもっとも高い能力を持つ長門は、未来も過去も、無数の可能世界も、ほとんど無限に把握していて、だから観客である僕たちのことすらも見えているのではないかと思ってしまう。でも、そうした無限の視野の中で、長門は、ハルヒやキョンたちとともに、選ばれたたった一つの現実を生きている。

 可能性の束を抱えながら、一本の線を歩んでいる。一本の線を歩みながら、可能性の束を抱えている。そして、長門はおそらく今日も、本を読みながら新たに可能性を育て、抱えていくのである。
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