YusakuGodai

天国はまだ遠いのYusakuGodaiのレビュー・感想・評価

天国はまだ遠い(2015年製作の映画)
3.8
 インタビューの最後。妹・五月は髪をうしろで結んで姉・五月と同じ髪型になり、三月の乗り移った雄三とカメラの前で抱きあう。2人の姿は、三月と雄三が2人でダンスをするシーンを思い出すが、しかし三月と雄三が近くにいるのにもかかわらず手を触れあえないのに対し、五月と雄三は抱き合って、互いの体に触れあっている。雄三の胸につけたピンマイクが、服の擦れ合う音と五月のすすり泣く音を大きな音で拾う。

 雄三から離れ、カメラの停止ボタンを押す五月、一瞬真っ暗な画面、「ありがとう」のセリフ、そして目をつむった三月のカットで、インタビューのシークエンスは幕を閉じる。「ありがとう」は五月から雄三へ、あるいは三月へ向けられた言葉だが、逆に三月から雄三へ、あるいは五月への言葉としても受け取ることができるだろう。五月は、幽霊である三月にはできない「直接触れ合う」ことを、三月の代わりにしたからだ。姉妹は互いに似ていることや、互いが互いの代わりになり得ることについて複雑な感情を抱いているが、ここではそのことが、ひとつの映画的な解決を導いている。髪を結ぶ仕草がそれを象徴的に示している。

 この作品には『寝ても覚めても』にも通ずるいくつかのテーマが見て取ることができる。簡潔に言えば、おそらく「半分」と「愛」という言葉に集約されるだろう。

『寝ても覚めても』はドッペルゲンガーを扱った作品だ。瓜二つの容姿の人物と、その2人の間で半分主体性を失って揺れ動く主人公を描く。登場人物はみな半分の、あるいは片割れの身体しか持っておらず、とくに主人公からは、ラストで映る濁りのある川のように、半分だけ透き通った印象を受ける。また、久しぶりに会った友人が主人公を見て言う「時が止まっているみたい」という言葉からは、「幽霊」のようなものも連想される(幽霊=半分だけ生きている存在)。

『天国はまだ遠い』に登場する三月も、見える人には見えるが見えない人には見えない半透明な幽霊であり、また生者としての年月と死者としての年月がちょうど同じ(17年)に設定されているのもあり、わかりやすく半分の存在といえる。また三月の行う憑依という行為も、身体を半分奪い、乗っ取る行為であり、ここでも半分としての存在のあり方が描かれている。

 おそらく濱口監督の中では、この「半分」というテーマが、「愛」というテーマと密接に関係しているのだろうと思う。『寝ても覚めても』については、tofubeatsの主題歌「RIVER」で「寝ても覚めても愛は…」と続くことからもわかるように、ずばり「愛」を中心テーマに据えた映画だ。『天国はまだ遠い』も同様に、ラストの展開は(僕としてはかなり意外だったのだが)異性間の恋「愛」へと向かっていく。いずれも、「半分」の存在と、その間で生まれる「愛」を描いている。

 社会学者・宮台真司が『寝ても覚めても』について、自身の映画評※ の中で「リアルな性愛が描かれていない」ことを批判点として挙げている。宮台のロジックにケチをつけるつもりはないのだが(というか無理)、ただ彼の見方を踏まえた上で、あえて「現実とは別の(性)愛」を、濱口監督がどのように描き出そうとしているのか、という視点を取ることはできないだろうか。濱口監督はもともと「リアル」な愛など描こうとしていない。そもそもふつうの「人間」の愛を描いてはいない。そのような前提から出発して、彼のリアリズムから浮遊した表現を、掴むことはできないか。

 そこからはじまる考察は、おそらく「半分」の存在の、言い換えれば「幽霊」の、「愛」についての考察となるはずだ。

 濱口監督作品をひとつずつ見ていきたい。

※「宮台真司の『寝ても覚めても』評:意味論的にも視覚論的にも決定的な難点がある」(URL : https://realsound.jp/movie/2018/10/post-259234_4.html)

また『天国はまだ遠い』は、vimeoで2020年4月28日までの期間限定で無料公開されている。(URL : https://vimeo.com/206682021)
 
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