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映画 聲の形のrayconteのレビュー・感想・評価

映画 聲の形(2016年製作の映画)
5.0
夏になると思い出す作品がいくつかあるけれど、聲の形はそのひとつだ。
改めて観ても、この作品は人間が交わる上での繊細なバランスについてこの上ない精度をもった映画だと思う。

石田は過去の行いを悔いて終始西宮に不器用な懺悔を続けるが、彼の懺悔は必ずしも西宮のためではなく、自分の利益のためでもある。例えば小学校を出たあとも普通に充実した生活を送っていたら、高校生になった石田は西宮に会いに来ただろうか。
今がうまくいってないから、うまくいかなくなった発端の地点まで戻ってやり直そうとする極めて自己中心的な人物とも捉えることができる。
西宮はいじめに関してはもちろん全面的に被害者だが、彼女の徹底的に自責的な性格はそれ自体が周囲に無条件で罪悪感を抱かせ、ある意味で露悪的とも言えるそれは無意識であるがゆえに余計に周囲を苛立たせることも事実だ。
植野は曖昧に笑ってやり過ごすよりも他人を傷つけることを選ぶ攻撃的な性格だが、自分たちに歩みよろうとせず「自分は他人と違う」と思い込む西宮に対して最も平等に接している人間だといえる。
川井は自己保身を最優先する少し鼻に付く人物ではあるが、実際のところ彼女は周りの空気が行く方向についていくだけの最も無害な人間でもある。

他にも、この作品には善と悪の二極では決して量れない人間の性質を鮮やかに過不足なく描いている。
そもそも人間に善悪など存在せず、あるのはシチュエーションだけなのかもしれない。
ただ個々の持つ性質が特定のシチュエーションでどういった方向に進むか、それだけの違いしかなく、例えば小学校時代のいじめが中学校になるとパタリと止んだりするのも、そういうことなのかもしれない。
この作品はいじめに関するものだと捉えられがちだが、いじめの有無に関わらず、人間が人間と関係していく上で必ず起こる複雑性についてとても精緻に描いた普遍的なものだと感じる。

この作品がくれるものは答えではなく、あるものが違うものに変化していく過程だ。
何かに対する見方を変え、よりよい方向にいく過程を観ている人と一緒に歩む。
決して見ていて楽な作品ではないけれど、いつまでも残りつづけ、その都度だれかの心の扉の鍵を開ける助けになるような作品だと思う。
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