DCレーベル史上最大のヒーローにしてアイコン──バットマン。
半世紀以上に渡ってあらゆる尺度から「やり直し(リブート)」を繰り返してきた金字塔的存在でありながら、本作「THE BATMAN」は過去のいずれの作品にもないバットマン像を提示している。
□オルタナティブ・バットマン
連続殺人犯〝リドラー〟を追う若き日のバットマンの姿は、これまでにないほど疲弊し、陰鬱とし、常に苦しさを漂わせる「停滞」に満ちている。
これまでの作品でのバットマンは、個性は違えど「マッチョで生命的エネルギーに溢れた正義漢」である点では一致していた。
しかし本作においては、ロバート・パティンソンがその役に配されていることや、映画の冒頭で「俺が闇そのものだ」と語られることからも、ブルース・ウェインはナイーヴで気難しく個人主義的で、著しく社会性のない人物として描かれている
本作のゴッサムシティでは、単純な暴力のみでなく、現代に通ずる様々な事件や事象を取り込んでいる。
性的搾取、ヘイトクライム、ダークウェブ……。
それらに対し、バットマンは極めて私的な鉄槌を下す。だが、「すべてを見張ることはできない」というセリフの通り、極めて個人的な興味と価値観によって、その鉄槌を下す相手を選んでいる。
ブルース・ウェインは親から継いだ莫大な資産を慈善活動や社会貢献ではなく暴力に注ぎ込み、闇への逃避を正義という言葉に置き換えて実現しようとしている。
それは、マフィアやヴィランと一体どう違うというのか。
暴力を暴力で制裁する行為の持つ根本的な矛盾について、本作は逃げずに正面から立ち向かっている。
また、本作が逃げずに立ち向かっている点は他にもある。
世界観のリアリティから来るバットマンの滑稽さについてだ。
顔をカムフラージュするためのパンダメイク姿は情けないし、何でもない移動の時のバットモービルはなんだかダサいし、普通に「USBはあるか」とか言うあたりはちょっと笑える。
ペンギンのナイトクラブで用心棒に「コスプレ」呼ばわりされるところなどはもはや悲しさすらあり、現実と地続きであるなら必然的に疑問が沸いてしまうバットマンの「生活感」の部分を、本作はきちんと描いているのだ。
このディティールは、マット・リーヴス監督の「クローバー・フィールド」でも描かれていた「非現実の中の生活感」を彷彿とさせた。
□バットマンとリドラー
「ダークナイト」におけるバットマンとジョーカーが「性善」と「性悪」の対比として描かれているのに対し、本作のバットマンとリドラーは見分けのつかない同色の存在だ。
二つを分つものは、ただ単純に貧富の差でしかない。
リドラーが「高層タワーに住んでいるのは孤児じゃない」という通り、金持ちは正義となり、貧乏人は悪人になるしかないという社会の絶望的な現実の姿が、二人の対比には現れている。
それを示唆するのが、リドラーの仕掛ける「なぞなぞ」だ。
ゴードンら捜査官たちが頭を悩ませる中、ブルースだけはほとんど間髪入れずに回答してゆく。
それはつまり、二人が根本的に同様の思想を持っていることを示している。同じ考えだから通じ合う──リドラーはその事を理解した上で、「メッセージ」をバットマンに送っていたように思える。
結果的に、ブルースはリドラーの言葉をヒントに自身の「使命」に気づかされることとなる。
闇を見張るダークナイトとして、人々を光のほうへ導く存在になるということだ。
ラストシーン、トラウマからの復讐ではなく、使命を得た彼の表情にもう淀みは感じられない。それは、若きブルース・ウェインが我々の知る「バットマン」へ成長した瞬間だったのではないだろうか。
□一番マトモなヤツ
個人的に、この作品で一番魅力的に感じたのは「ペンギン」だ。
ペンギンは確かに悪人ではあるが、自分の悪事に自覚的であり、不安や恐怖や傲慢や憤怒、そして愛など、人間らしい感情も一通り持ち合わせている実は最も理性的な人間なのだ。
少なくとも、個人的なトラウマを免罪符にしてパラノイア気味に暴力を振りかざすバットマンやリドラーよりも全然マトモなやつではある。
それらとの対比のせいか、ペンギンの人間くささは妙に愛嬌があってなんだか憎めないところがある。
あれがコリン・ファレルだと知った時はマジで驚いたけど。
ペンギンはもちろん、ラストで響いたあの〝高笑い〟で、すでに次回作への渇望が止まらない。
新しいユニバースがどう展開していくか、楽しみでしょうがない。
最後に、本作で用いられたモチーフを理解するためによさそうな映画を挙げておく。
・ラストデイズ(2005)/ガス・ヴァン・サント監督
・ゾディアック(2007)/デヴィッド・フィンチャー監督