Nolton

哭声 コクソンのNoltonのネタバレレビュー・内容・結末

哭声 コクソン(2016年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

【人が現実に見出す"物語" のおはなし】


2時間半があっという間だった「コクソン」、これは凄い映画を観てしまった…。爆音祈祷シーン、噴出するゲロ、韓国映画お約束の無能警察、シュールな笑いとも同居する何を怖がればいいのか分からない不思議な怖さ、國村準さん(以下敬省略)、クァク・ドウォンは元より子役の女の子の気迫に溢れる演技etc...個別に良い処を挙げればキリがないし、徐々に浸食してくる異常性に圧倒されっぱなしでした。そして何より、そうそう出来ない斬新な映画体験をさせてもらったな…と。自分にとってかなり重要な一本となることは確実です。


「コクソン」、一見幾ジャンルをごった煮したような節操ない映画に見えかねませんが、全体を通して見ると、一貫してあるテーマを真摯に描いているといえます。それは何かというと、人が無意識に見出す「物語」についての話である、ということ。


この映画、先の読めなさで言ったら近年髄一じゃないかと思うほど、時間を追う毎にどんどん新たな事実が明らかになり、それに対して様々な憶測が繰り広げられます。観ているこっちもその情報量に圧倒されてしまいますが、一番振り回されるのは娘を心配し躍起になり、ついに殺人まで犯してしまう主人公・ジョングでしょう。村に起こる不審死、そして娘の病が國村のせいと考える彼ですが、、、作中ではこの騒動の原因がハッキリと序盤、そして終盤でも触れられています。そう、キノコです。キノコの成分が引き起こす幻覚作用がこのすべての騒動の原因への(一応)合理的な説明とされていました。しかし主人公サイドはこの情報を早めに得ていたにもかかわらず、まるで信じようとせず、身の回りに起こる事象から國村への不信感を強めていき、ついに彼を原因と断定し轢き殺すに至ります。


この彼のムチャクチャな行為を、考えが浅い彼が暴走しただけ、という問題のみに片付けるのは強引でしょう。その極端な例として挿入されるのが、「雷に打たれたのに一命を取り留めた、なぜなら夫は漢方薬を飲んでいたから」と発言する女性の存在です。これを聞いた彼は、そんなムチャクチャな…と怪訝な顔をしています( これを作劇的にギャグシーンとして処理する手法が本当に巧い… )。ま、マトモな反応でしょう。しかし「漢方薬を飲んでいたから助かった」と、「不審死と娘の病は國村のせいだ」、この二つに何か違いがあるでしょうか?どちらも自分が見聞きした事実から予想した、真実からほど遠い憶測に過ぎません。


「人間は皆、何か考えられないような事実に出くわした時、それまでの事実から何らか理由・因果関係を見出して納得しようとする、そこにバイアス(漢方薬は何にでも効く、村に越してきた怪しい日本人は人殺し)が介入する事は否めないにも関わらず」というヒトが思考する上では避けられない枠組みが、この映画では終始徹底的に示されています。

でも、ここまでは「現実に意味を見出したい人」という色々な寓話で語られているテーマでしょう。「ミスト」なんかはその因果関係が通用しない事が怖い、という"アンチ物語"映画だし、物語を信じる事で救われる子供を描いた「サイン」「スーパー8」なんて映画もあります。


しかしここからがこの映画に特異な点ですが、「コクソン」はこれだけでは終わりません。宗教をモチーフとする事で、宗教に対して、そして映画に対して観客が無意識に抱えている、信じている"物語"を自ら炙り出していきます。


例えば國村や女の正体について。途中宗教がモチーフとして絡み始めた辺りから「あ、國村はどうも悪魔っぽいな」と感じた人は多いと思います。作中「お前は悪魔か?」と問われた彼が「お前がそう思うのならそうだろう」という受け答えをしますが、「こいつは悪魔に違いない!」と思う時、そのイメージはどこから来ているのでしょうか?


普段「悪魔」と聞いて思い出すビジュアル(黒い体、鋭い眼光、尖った爪etc…)というのは、大方は聖書、すなわちキリスト教由来のイメージかと思います(詳しくは知りませんが…)。しかし作中にはこれと別に祈祷、つまり韓国古来のシャーマニズム(おそらく)がメインの宗教として登場し、その中で彼は"悪霊"と呼ばれています。なるほど、悪魔にしろ悪霊にしろ、「人を悪い方向に導く霊的(超常的)な存在」というのは確かなようで、それをキリスト教では「悪魔」、祈祷師は「悪霊」と呼んでいる、ということなのでしょう。


女についても同様の事が言えます。作中で、女を見たという祈祷師に対してジョングが「白い服の女か?」と聞く場面がありますが、その日は警察官が初めて女を見た日から数日が経過しているハズ。にもかかわらず、女の特徴を言うときに服について言及しますかね?恐らく女を初めて見た時、彼の脳裏には女が"白い服を着ている"というイメージが異常に焼き付いて離れなかったのではないでしょうか。作中の主人公を救おうとした描写からも、彼女は國村と対峙する「天使」、というよりもこの映画では「人を良い方向に導く存在」として描かれているのではと思います。(監督も彼女について「善性の霊だ」と言及しているそうです)


この2人が「悪魔」「天使」である、という考え方はビジュアル的イメージとも合致していますが、どちらも元は聖書に由来した概念です。しかしキリスト教に関心のない主人公(十字架のネックレスにそんなもの…と言う)でもその存在が見えた事、作中で繰り広げられる迫力の祈祷合戦(?)に國村が応戦していた事など、彼らがキリスト教の概念からは離れた存在であることは明白でしょう。すなわち「彼らが「悪魔」「天使」である」という考え方はむしろ逆で、2人はどちらも特定の宗教には依存しない「超常的な存在」であり、それが古くからキリスト教では「人を惑わす/導く存在」として「悪魔」「天使」と名付けられ、その外見的特徴と併せて聖書という"物語"の中で伝承されてきた、とは考えられないでしょうか。


終盤の神父「お前は悪魔なのか?」國村「お前がそう思うならそうだろう」、という会話はこれを象徴しています。國村が最後に晒す悪魔の様な形相は、果たして現実のものでしょうか?この映画では現実と夢の境界が曖昧な描写が多々見られます。聖書という"物語"に身を捧げ、思考をガチガチに縛られた神父には國村が悪魔にしか見えなかった、と解釈することもできます。

(國村=キリスト説を聞いた時は膝を打ちました。でもこれって更に怖い、聖職者でさえキリストが現実に現れても正確に認知出来ないという事ですよね)


自分の思い込みを信じて疑わず、女の忠告を聞き入れないジョング。忠告を無視し自滅する人物の説話の再構築、とも取れますが、同時に宗教の持つ"物語性"="現実の見方の偏り"への皮肉とも取れるでしょう。「君たちが信じてるそれって、漢方薬が何にでも効くと信じてるのと何が違うの?」

向こうではこの映画はキリスト教系団体から宗教の否定だ、と苦情が出たそうです。まあ分かるんですけど…軽率かな、と。「コクソン」は世界一有名な物語として聖書を題材にしたというだけで、宗教に限った話ではなく人が盲目的につい見出してしまう"物語"の危険性を説いているまでです。でも韓国って3割くらいがキリスト教徒の国ですから、これ程挑戦的な映画も中々無いでしょうが…。


そして。。。「コクソン」が一番憎いのは、この映画自体が観客に対して"物語"、即ち「結局何が起こったのか・原因なのか」「作中の人物は何者なのか・何に気付いたのか」などを観客に自ら導き出させるような構造になっている事ではないでしょうか。魚、黒山羊、聖痕…聖書からのモチーフをこれでもかと散りばめ、事件の原因だってキノコ・國村・女・祈祷師など幾通りの解釈が出来るように、そしてそれぞれが上手い事互いを否定し成り立たないように、つまり何かを無視しないと筋が通らないように構成されています。観客はこの映画を観終え、要素をピックアップしながら「今、自分は何を見たのか」を整理する時、どうしてもそこに"物語"が無いと、因果関係を構築しないと気が済まない自分に気づきます。「國村の正体は…」「祈祷師は実は…」「娘が呪われたタイミングは…」「なぜ写真なんだ…」、、、そしてジョングに対して「あ~ぁ、やっちゃったな…」なんて遠巻きに見ていたハズの自分が、鑑賞後ジョングと同じ境遇に立っている事に怖くなるのです。

前述の「悪魔」「天使」や原因がキノコだって、この事に自覚的になる為あえて断定口調で書いてみましたが(笑)、かなり怪しいです。そもそも聖書にビジュアルが書いてあるかすら怪しい(笑)


この映画に対して普遍的な解釈なんてあまり意味を成しませんし、ネタバレという概念からもフリーです。バラす"物語"は全く信じられない自分の中の解釈でしか無いのですから。一番陥りやすく危険なのは先入観や一つの解に囚われ、それ以外の解釈を受け付けられない状態ではないでしょうか。これほど色んな人の考察を知るのが楽しい映画も珍しいのでは。「コクソン」はこういう意味で一貫したテーマを貫きながらも、一本のストーリーから解き放たれた映画であり、かなり斬新な、いわばアトラクションのような映画体験を提供する、素晴らしい映画であることは間違いないです。


最後に。日本版ポスター、「疑え。惑わされるな。」というキャッチコピー共に素晴らしいです。大ヒット願ってやみません。
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