クリンクル

ハウス・ジャック・ビルトのクリンクルのレビュー・感想・評価

ハウス・ジャック・ビルト(2018年製作の映画)
5.0
ドッグヴィル、マンダレイで使っていたデヴィッドボウイのyoung americansから最終曲fameを使った予告編を見て、「この予告作った人センスあるなぁ」と思っていたらアニメーションもヒトラーもメランコリアのあのシーンも本編で使われていたとは…

肝心の映画そのものはというとひたすらに醜悪で悪趣味。
だが、それを見世物にするスプラッター映画にはなってない
最初こそ傲慢でウザい女が殺されたり、強迫性障害の主人公に劇場でも笑いが起きるほど面白かったが、第3の殺人からはまったく笑えない。芸術や建築をジャックが口にするがハッキリ言って共感に値しない
それもその筈で作品を俯瞰する神の視点であるナレーションもジャックを完全に見放し侮蔑している

では、このブルーノガンツこそが監督であるラースフォントリアーの代弁者であるのか、自分は違うと思う
じゃあジャックがそうであるか、と言うと大部分同じであるようにも思うがそれも違うだろう
平凡な答えになってしまうがこの作品そのものがトリアーの言いたいことになっているのだ
異常者である自分と異常者を俯瞰する自分が同時に存在することこそがトリアーのパーソナルな部分なのだと思う

羊と虎という言葉が繰り返されるが、今作が虎から語られるとするなら以前の作品はほぼ全て羊が語る作品だ
今までの作品では、純粋すぎるほど無垢な羊たちがジャックが第4の殺人の際に言うようなクソな町に殺され、クソな国に染まり、クソな世界の崩壊に一瞬の平穏を得ていたが、彼女たちがトリアーの代弁者になり得ていたかは微妙である
無垢さが報われたり、無垢を失って力を得たりする事で語りたいものは無垢さではない外の世界だ
今回は虎として、その無垢でないものを語っている
「なぜ女の話ばかりする?」というガンツのセリフに対して協力的だからなどとジャックが返事をするのも象徴的で、トリアーは女性を描きたいわけではない
無垢な者を描くことが出来るトリアーは当然無垢の世界の住人ではないわけで、クソの世界の一員だ

どの作品でも無垢な者に希望を委ねていたトリアーがとびっきりの異常者を地獄に叩き落としたことは、今までのどの作品よりも私的な意味が込められていると感じる

あと、この作品をノーカット無修正で公開してくれたクロックワークスとアルバトロスに感謝