すいませんね、ホント。
世間がSW一色の中、いまだに『ブレラン』について書いているこのレビューって、なんなんでしょう?
ただね、まだまだ言い足りないことがあるんで、またもやスピンオフ短編のスペースを借りて、書き散らかしたいと思います。
①好き、と、②嫌いがハッキリ分かれがちな『ブレラン』。
最も大きな分水嶺は、ワークプリント、オリジナル劇場版、インターナショナル劇場版、ディレクターズカット最終版、ファイナル・カット…と5つものヴァージョンがある点でしょう。
これについて我々①の連中は「いっぱいあって嬉しい」となるし、②の方々は「ひとつで充分ですよ」と呆れる。
①の立場だと、いろんなヴァージョンを許しているリドリー・スコット監督の懐の大きさ、開かれた姿勢を愛するわけです。
ファンはどのヴァージョンがベストというよりも、様々な版からお気に入りの部分を組み合わせ、さらに今世紀に入ってから発表された未公開シーンの数々からチョイスしたりして、自分なりの理想の『ブレラン』を作り上げています。
多彩な料理を出すレストランで、好みのメニューを選んで、オリジナルのコースを楽しんでいるような感覚。
この、自由で、開かれた感じはヴァージョンだけの話ではありません。
作品自体のデザインにも関わっています。
『ブレラン』は基本的には、シド・ミードというデザイナーが生み出した未来図を基にしていますが、それにとどまらず、他の美術や特撮スタッフの多彩なアイディアを貪欲にとり入れて、雑多な、ごった煮的な世界を作り出しています。
だからこそ、独りのデザイナーの美意識に貫かれた他のSF映画に比べて、統一感はありませんが、窮屈な感じはしません。
他のSF映画がこだわりの強い才人がデザインした部屋だとしたら、『ブレラン』は様々な文化や風俗が入り混じった街みたいなものです。
なので、自由で、なんでもありで、開かれた感じがする。
何度観ても新たな発見がある。
ヴァージョンもデザインも多彩な『ブレラン』。
LGBTだの、働き方改革だの、ダイヴァーシティ(多様性)などと叫ばれる世の中がやっと追いついてきたような気がします。
だから、この作品はいまだに古びないのではないでしょうか。