海

チャイルド・イン・タイムの海のレビュー・感想・評価

チャイルド・イン・タイム(2017年製作の映画)
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きいたことがあるでしょう。貝殻がずっとくりかえしている波の音を。空洞に耳をぴったりあてて目をつむるときこえてくる。海辺からずっとはなれた高速道路の上。あなたの手のひらがいっぱいになるくらいの大きな貝殻。右耳にあてて、じっとしてうごかないその画をいつか同じようにみていたような気がする。あなたが目をあけて言う。「帰る場所はわかるのに帰りかたがわからないんだ」どこからか伸びてきたおとなの手が、あなたの頭をなでて言う「やさしいこ」窓のむこうから吹き込んだ風が、ほほの熱をうばって去る。その瞬間あなたは世界でいちばんやさしいひとだったろう、そしてあなたの世界では、あなたこそが世界でいちばんひどい人間だったろう。どんなに時間が経ってわすれた気でいても、きえない傷がある。やさしさだけで、たどり着けるでしょうか。深いふかい悲しみは、だれのことも泣かせず、うずを巻くことも、とかしてほどかれることもなく、ほかのどんな感情にもかわることのできないまま、心の底に横たわっている。あなたのいた場所に、いつまでもあなたの音がきこえる、あの道の上、その窓の向こう、この腕のなか。いつかおそわるでしょう、貝殻からきこえるあの音の正体は波でも記憶でもなくて、空気の振動や、じぶんの身体のなかをめぐっている血の音なんだって。わたしはおもうのです、記憶のなかのおもいでと呼べる部分を、きっと過去とは呼ばない。けっして今とも呼ばないかもしれない、わたしやあなたの名前はそれを呼び出すためにある。貝殻が海をあいしているようにわたしはあなたに語りかける。やさしさだけで、たどり着けるでしょうか、窓のむこうにみえているあなたのところまで。明日までがどんなに長くても、本物の真夜中は一瞬でおわってしまう。あなたにまつわる完璧なおはなしをしよう、何十億のなかのたった一個の音が鳴りひびいている、わたしの国のおはなしよ。
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