【 監督は語った「この状況を世界に伝えなければならない」 】
毎日、テレビのニュース番組でさまざまな世界情勢を“チラ見”して、「自分には想像もつかないような大変なことが、世界中で起きてるんだな」と思う。
一方で「ネット社会ではその気になれば情報はいくらでも取れる」と言うけど、それは情報として発信されていれば、という話だ。当然だけど、世の中にはメディアに取り上げられない哀しみや理不尽さが数限りなくある。
そういう点では、フィクションであれドキュメンタリーであれ、“知らなかったこと”を少しでも知るために、あるいは “ほんの上っ面でしか知らなかったこと”を少しでも掘り下げて知るために、映画というメディアは大切なんだと思う。
【 法的には「存在のない」子供たち 】
この映画の舞台は、中東レバノン。レバノンは隣国シリアから戦禍を逃れてきた難民で溢れかえっているんだそうだ。
職に就くことも出来ない貧しいシリア難民の家庭に生まれた、主人公の少年ゼインは、両親に出生届を提出されておらず、生年月日も年齢もわからない(推定12歳くらい)。法的には「存在しない子供」なのだ。学校に通うことも出来ず、毎日、弟妹たちと路上で手作りジュースを売って家計を支えている。
【 少年ゼインの目に映る世界は「絶望」だった 】
ある日、まだ11歳ほどの最愛の妹サハルが、家主の男と強制的に結婚させられる。性的な奴隷扱いを受けるのだ。ゼインは泣き叫んで両親に抗議するが結局、妹を助けることは出来ず、少年はひとり家を飛び出す。
12歳のゼインは街に出て、仕事を求めてさまよい歩く。ひとり、遊園地で観覧者に乗ったゼインの、窓からの景色を見る目の光の無さに、心が痛む。あれは12歳の子供の表情ではない。すべての希望を失った者の目だ。
【 ささやかな希望を守るために 】
ゼインは黒人女性ラセルと赤ん坊ヨナスの親子に出会い、粗末な借家で3人の暮らしが始まる。ラセルが外で働く間、ゼインが赤ん坊の面倒をみてやるのだ。隣家の壁が間近に迫った窓から、それでも僅かに柔らかい陽がさして、ほんのひととき、ゼインに心穏やかなあたたかい時間が生まれる。
しかし、それも束の間。
身分証を偽造している不法滞在者であるラセルは、ある日、外出先で警察に捉えられ、拘束されてしまう。
赤ん坊と二人で残されたゼインは途方に暮れるが、それでも今日を生き抜くための金を稼がなければならない。ヨナスを粗末なワゴンに乗せて引っ張り、夜の闇市で麻薬入りジュースを売り歩く。
そんな二人をさえ騙そうとする闇商売の男の「赤ん坊を私に売れば、赤ん坊自身も幸せになれる」という悪魔の囁きも拒否。必死でヨナスを守って生き抜こうと奔走するが、厳しすぎる現実の前にゼインはあまりにも無力だった。
【 監督「もう見て見ぬふりはできない」】
シリア難民のこと、難民国家レバノンのことを短いニュース映像で見聞きはするが、改めて、この映画に映し出された過酷で理不尽な状況をみて、絶句する。しかも、ここで描かれている貧困と苦難は特別ではなく、レバノンではどこにでもある日常なのだ、と言う。
この映画を撮った女性監督が語っていた。「これまで、路上で生活する少年たちを数多く見てきたが、ある時ふと、車に乗って通り過ぎる私は、彼らからどう見えるのだろうかと思った」「私もまた、彼らの貧困を見て見ぬふりをして、存在しない者にしている大人の一人なのだ」「この状況を世界に伝えなければいけないと思った」と。それが彼女の戦い方なんだろう。
【 目を開くこと、耳を傾けること 】
ゼインの「僕は地獄で生きている」「僕の人生は最低だ」という叫び。
「ゼインの苦労を思えば、オレの日々の苦労なんか大したことじゃない」と言い放つ自信はない。自分の無力さに、往年の井上陽水の「傘がない」の歌詞を思い出す。
だけど、こうして世界の片隅に起きている現実を伝えようとする映画人がいるのだ。せめて、こういう現実があるのだということ、そのことを知って、受け止めること。そのうえで、生きていける人間でありたい。