モクゾー

ランボー ラスト・ブラッドのモクゾーのネタバレレビュー・内容・結末

3.8

このレビューはネタバレを含みます

●ランボーの生涯、そしてシリーズの美しく、悲しい幕引き


コロナの影響もあり映画館では連日ジブリの再放映を見ているのだが、このランボー新作は侮れない秀作であった。

前作、「最後の戦場」からかなりハードなゴア描写もあり、すでに「ヒーローもの」としてのランボーというよりも、ベトナム戦争から連綿と紡がれる、アメリカの暴力の歴史が生んだ悲惨な「負」の側面が強い物語となっている。

常に敵を作り続けるアメリカ…その時代ごとに罪を背負わされるランボー。
彼は身体をズタズタに引き裂かれる敗北を繰り返し、また自分の心をズタズタに引き裂きながら生存を勝ち取ってきた。

そして今作では、「最後の戦場」の後…つまり戦場ではなく、ホームランドに血が流れる。

彼は、もう振り払うことすらできないトラウマと共に生きるように、家の庭にトンネルを掘り続ける。すでに戦場にしか生きる意味を見出せなくなったランボーの悲しみが、トンネルの深い闇に投影される。
しかし、その闇に一つ灯るガブリエラという光。自身の闇には「蓋」をして、彼は希望を若い彼女の未来に託す。

しかし、そこに襲い掛かる容赦のない悲劇。
そこには因果応報などという理にかなう構造はない。被害者は不幸を負う因果など全くない善良な市民、希望の灯である。
そこに人間が無作為に放つ悪意が降りかかる…そのおどろおどろしい暗さと悲劇。そこにランボーが見続けてきた戦場の闇が重なっていく。

凄惨な悲劇に打ちのめされ、ランボーの目に復讐の炎が宿る。それはベトナムやアフガンでの闘争と同じ怒りだ。

ランボーは庭に掘り続けたトンネルの闇に敵を呼び寄せる。そこから先は血で血を洗う殺戮ショーの始まりだ。
あまりにも惨たらしい殺し方で、次々と無慈悲に敵を殺害していく…そこにはヒーローという生易しい姿はない。

そして、ここにこそ、
この映画の白眉の出来があると思う。

この映画を見ていると、ランボーの復讐にカタルシスを感じている自分に気がつく。
あまりにも酷いことをしてきた敵に対して、より惨たらしく、より痛みを与えて殺して欲しい、ランボーに暴力の制裁してほしい…と思っている自分に気がつく。バタバタと血濡れて倒れる敵を見て、スカッとしている自分がいる。


…これだ。この思想がいけないんだ。

かつてベトナム戦争の際には、ランボーはアメリカの正義として、殺戮を託された存在だった。…どの戦場でもそうだった。
いつだって人々は、ここではないどこかで、自分ではない誰かが、自分の思う正義を執行していてくれることを望んでいたのではないか?その暴力に対して、誰かが手を血に染めていることも考えずに。。

いま、映画を見ている私が、ランボーに対して、悪を「ぶっ殺して欲しい」と思うこの気持ちこそが、まさに戦争を後押しした世論ではないのか? ランボーを苦しめてきた愛国心の歪みなのではないか?
そして、それを背負ってくれていたランボーが死んでしまった時、我々のこの想いはどこに向かっていくのだろうか?


アメリカにとってすでに戦場は遠い国の出来事ではなく、暴力は身近なものとなっている。米国民はこの映画を見て何を感じるのだろう…


ジャンル映画としてのアクションも秀逸だが、もはやこの映画はそれを超えた、アメリカの現状を示す深い示唆に富んだものだと感じた。