モクゾー

アルプススタンドのはしの方のモクゾーのレビュー・感想・評価

2.8
●青春とは、人生と折り合いをつけるタイミングなのか…


高い評価を聞いてはいたが、やっとネトフリで鑑賞。

甲子園に出場した野球部の応援にきた学生たち…応援スタンドの端の方に座る少年少女の会話から、彼ら個人が抱える物語が浮かび上がってくる…というようなストーリー。
ほとんどが応援スタンドのみのシーンで構成されており、野球のシーンはひとつも映らない。

これは原作など知らないが、明らかに舞台として作られたものなのだろう。…というか、映画より舞台の方が合っている作りである。
会話での距離の詰め方、妙にわかりやすい性格のキャラクター、不自然な会話のテンポなどは、舞台演劇という「嘘」を観客が許容して含み込む装置の上でこそ成り立つものと思われる。それを映画にしてしまうと、不自然さが際立ち、また少し飽きが来てしまうのではなかろうか。

社会の主役≒リア充が不在で、世界の端っこで物語が進む構造を見ると、名作「桐島部活やめたってよ」が思い出される。

どちらも、"映画にはいつか終わりが来る"ということを、"我々が観ている青春物語にも終わりが来る"ということと無意識のうちに重ねて観ている。つまり映画や舞台という調停装置(マキナ)を神とした、ゴドーを待ちながら形式の物語だと思う。
彼らの学生生活も、青春も、考え方も…映画と一緒に終わると無意識に理解して観ているのだ。

しかし、桐島…が映画的であるのに対し、アルプス…はいまだ舞台的だ。
これは桐島が学校というモラトリアムな環境そのものを切り取ろうとしているのに対し、アルプスはそこに出演している人間にしか視点を集めようとしていないからではなかろうか。
つまり、そこで本当に野球の試合が存在する気がしない。名前だけ出てくる〇〇君や✖️✖️君が本当に実在しているように見えないのだ。

規模や予算をコンパクトに抑えた、インディーズとしてみれば悪い映画ではないのだが、
やはり舞台で見てみたい話という感じだ。
(舞台と映画は決定的に異るメディアである)

これを映画にするならば、出演者をアイドルなどにして、その人間を魅せるやり方のほうごが合っているのではなかろうか。

さらっと見るのには良い映画であった。