この映画でとりあげられている「やまなみ工房」は、
私が住んでいる町内にあって、中学生の頃は毎日その前を自転車通学していたようなところです。
さらにワタクシゴトですが、現在、発達・知的障がい児に接する仕事に就き、
学生時代には芸術を志していた私にとって、身近な関心事が多く詰まっている作品でした。
やまなみ工房については、こんなに近くにありながらその様子を知らなかったので、
通所者・支援者の方やその活動について、とても興味が湧きました。
ただ、この映画を通して気になったのは、あくまで彼ら(通所者)の“作品”を中心にして、
それを芸術として高めようとする意図のもとに製作されたのではないか、という点です。
彼らの創作物の見せ方であったり、
それらをアート作品として語るのが芸術に関する仕事人である、というところから伝わってきます。
つまり、工房の作家自身の言葉でも、
言葉を使って自己を表現することが難しい彼らの代弁にもなっていないように思えるのです。
ただし、見せ方として巧妙だと思うのは、最後のポートレート制作の場面。
彼らを芸術家として見せようとする意図的な行為があからさまな一方、
写真をとられる彼らの笑う姿や写真そのものが本当に魅力的で、
芸術作品として取り上げられることへの、とまではいかなくても、
社会的なつながりを持てることを心から喜んでいるように見えます。
映画の中で“性的衝動”を「リビドー」と訳していましたが、
アートとして見る(価値づける)者と、作りたいから作るという作者の気持ちが、
結局のところまとまっていないところが、なんとも複雑に感じます。