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ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへのBigsのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます




#1 2020/3/1 シネリーブル梅田 ※2D
#2 2020/8/29 シネヌーヴォ ※2D
#3 2023/11/3 なんばパークスシネマ《3D》


#1
すごく変な作りの特異な作品で見所はあったので、それなりの高評価としたものの、はっきり言ってなんだったのかよくわからん!
見ようによってはチープでチグハグな印象も受けるが、でも抗い難い不思議な魅力があるのも確か。「あれは一体なんだったのだろう」という不思議な後味の作品に、たまに出会えると嬉しい。

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#2

2回目は前作『凱里ブルース』と続けて鑑賞。やはりこの挑戦的な試みが面白い。
『凱里ブルース』と映画の方向性はまた少し違うようにも思うけど、ワンカットシークエンスの夢幻具合はこちらの方がより明瞭だと思うし好みだった。(勿論『凱里ブルース』にはまた違った魅力があるのも間違いないですが。)

本作も上映時間全138分のうち、前半はノワール調の地に足ついたドラマ、後半60分は"3D"ワンカットワンシークエンスで構成される。
前作に比べてより前半と後半の差異がはっきりしている。前半はいわゆる従来の映画的な地に足ついた演出で描かれる。こちらはこちらでしっかり洗練されており、色調やライティング、カメラワーク、構図等、見所があり充分面白い。ただし、前半もリアリティを描いているかというとそうでもなく、ファンタジックな演出・展開も随所に見られる。
ストーリー的には画面の質と呼応するようなノワール調のお話で、今は全て失った孤独な男が喪失感や後悔の念を埋めるように、失った女を求めて彷徨っていく。謎めいた女ワンチーウェンは非常に抽象的な存在でいつも緑の服を着ており、持っていた緑の本はそのタイトルもわからず、何者なのかもはっきりしない。そしてほぼ画面に現れず、その存在だけ断片的に語られる主人公の母親と幼なじみ白猫。彼らが実体を伴わない断片的な存在だからこそ、現在の喪失感や孤独さが浮き彫りになる。またこの空白が多い記憶の断片が彼の夢想として結実する後半部にも大きく効いてくる。

後半に関係してくるモチーフの数々。
ワンチーウェンが語る季節外れのザボン。呪文を唱えると回る家。鉱山の奥に捨てられた白猫の死体。リンゴが好きな母、ハチミツ農家。主人公は卓球が得意だった(子供に教えられるのは卓球だけだと言っていた)。

前半部での主人公のセリフ(ワンチーウェンとどこかの家に行っているときの独白)。「映画は虚構であり、シーンを繋いでできている。記憶は突如として眼前に現れる。」
このセリフが表すように、後半部は主人公の記憶、もっというと記憶の断片が集積したような夢想のシークエンスが展開される。
ワンチーウェンと漸く再会できるかもしれない、そんな状況でパブの従業員から開店までしばらく映画館に行ってきたらと言われ、座席に座り3Dメガネをかける。ここの3Dメガネをかけるシーンは、「あ!ここで切り替わるのね!」という驚きもあり、全体的に時代性がはっきりしない物語の中で寂れた映画館で急に3Dメガネが出てくることのミスマッチな奇妙さもあり、そしてタイトル画面と高揚感を煽る劇伴。わくわくする展開だった。
そして漸く始まる3Dワンカットシークエンス。できることなら3Dで観たかった。
洞窟の中を歩く主人公、そしてそこに住む少年と出会う。そのやりとりや少年の出立等、なんとも珍妙で、映像的なエフェクトは何一つないのに不思議な感覚。そしてそれには前作同様、ワンカットだというのも大きい。やっぱりこれまで観てきた映画(前半部もその一つと言っていいだろう)と違って、やはりどちらかというとVRやゲームに近い何かまた別の映像表現という感じがする。少年との卓球のやりとりも気が抜けたように見えるかもしれないけど、彼が誰かを考えると非常に切ない。また卓球を教えるという所からも、少年は白猫である一方で、部分的には生まれてこなかった我が子の投影でもあるのかなと感じた。回転サーブのくだりとか、地面が凹んでいて場所を交代するのとか、オフビートな笑いもあり。
そこからそこそこの距離をバイクで移動するが、そこも前回同様、ワンカットで続けていく。この移動もスムーズで前回よりも技術的にも上達しているのか。
ゴンドラで降りて灯りのともる集落の中へ。このあたりのワンカットだからこそスリリングに見えるアクション展開、カメラワークも面白い。
そしてビリヤード場でワンチーウェンに似た女性、そしてワンチーウェンと似ていると言っていた自分の母親らしき人とも出会う。この小さい街の中で失った人たちと再会するのは箱庭的だし、だからこそ幻想的。物語的にはこれまでの要素が集約され、映像的にもワンカットで閉じた世界が形成され、それこそが人間の記憶であり夢想である、という着地。今の技術があるからこその映像表現だし、だからこそ紡ぐことのできる物語だという感じがした。言葉での説明が難しい。
明らかに非現実で幻想的な世界なのに、CGや特殊効果等のエフェクトは使っていない。非日常を日常的に描くという意味でマジックリアリズム的とも言えるのかな。
ラストはこれまで何回も話に出てきた、呪文を唱えると回転する家。カメラが回り抱き合う男女が出てくればそれは幻であるという、映画的クリシェ(『めまい』、『ララランド』、『魂のゆくえ』等)も利用し、背景の壁が回る映像。
語りの軸が現実には戻らず、幻想のまま終わってしまうという展開は、美しくもあり寂しく儚い。この体験が彼の今後の人生にどんな影響を与えるのかとも考えてしまう。個人的にはワンチーウェンには現実に再開できなかったんじゃないかとも思う。
後半の一発目に現れる白猫やワンチーウェンのことを考えると、再開への期待や後悔を抱えて、それをなんとか自分の中で処理しようとして、ああいうビジョンを見てしまう。けど、おそらくは現実には会えなくて、という人生のままならなさ、やるせなさみたいな側面がロマンチックに描かれていたのかなと思う。

政治的な内容が直接言及されることはないが、幻想や夢といった究極的に個人に絞った物語は、個人が抑圧される現在の中国の状況に対する無意識のカウンターなのかもしれないとも思った。そういう意味ではやはり社会的で政治的な映画だとも。


回転するものがたくさん出てくるが何か物語的な意味があるのか。ラケットの回転、家の回転、時計の針、回転サーブも(?)。

途中、ラケットを回すと空を飛べるというシーンで、おそらくカメラはドローンで飛んでいくが、役者さんはその間下まで急いで降りて行ったのだろうか?次に出てくる場面で息切れしているように見えたが。


今作はお話的な完成度も完璧とまでは言えないかもしれない。もしかすると、より決定打となる作品が出てきて、過渡期的な作品という見方に変わる可能性もある。
ただ、こういう表現を使った代表作として後年語られるようになるんじゃないかとも思う。


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#3

『ロングデイズジャーニー この夜の涯てへ (3D版)』、なんばパークスシネマにて鑑賞。劇場3回目にして初の3D。冒頭に3Dメガネをかけるタイミングの指示あり。やはり映画に入り込むような仕掛けは面白い。3Dにより前後半の差異が際立ち、記憶や夢の映像化のような試みもより感じ取りやすいように思う。

後半のワンカットワンシークエンスで、カメラがドローンで移動後に、タンウェイら2人が(急いで移動したからか)息切れ気味なのは毎回気になる。
3回目だけど、刑務所の女の人の話はよくわからない。話の内容的にはワンチーウェンだけど(ワンチーウェンって言ってるし、緑の本の話もしてるし)、何故ワンチーウェンの写真が主人公の父親の手元(時計の中)にあったのか。写真も古そうだし、年代的には母親の話をしてそうだけども。

ダンレボのシーンが良い。

『ロングデイズジャーニー』は3人の撮影監督が携わっていて、そのうちの1人ドン・ジンソンはディアオ・イーナン『鵞鳥湖の夜』撮影監督でもある。

今回観て思ったのは、後半のケーブルで降りる箇所や空中を飛んで降りる箇所(ドローン撮影)は、ミハイルカラトーゾフ『怒りのキューバ』を彷彿とさせて、驚異的なワンカットという共通点もあるが、その影響もあるのだろうか。
Bigs

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