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82年生まれ、キム・ジヨンの海のレビュー・感想・評価

82年生まれ、キム・ジヨン(2019年製作の映画)
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私が初めて「男の人から変な目で見られている」と感じたのは小学3年生か、4年生の時だった。当時私は、夕方放課後クラブ(学童保育というのかな)に迎えに来てくれる母と、家に帰る前に夕飯の買い物をするのが常で、その日も近所の古いスーパーに寄った。店の前には「駐車禁止」って注意書きのある、錆びた置き看板があって、その前を通りかかった時に、飛び出ていた釘を踏んでしまった。幸い、靴を突き破った釘の先は踵の後ろを通り抜けてくれたおかげで怪我は無かったんだけど、危ないのに変わりはないし母が店の人を呼び出して苦情を言った。その店員は、普通のおじさんだったと思うけど、顔や風貌はよく覚えてない。その男は医務室で傷を見ると母に言って、店員専用のドアから店の裏に私を連れて入った。今考えると、明らかに医務室ではなかった。靴を脱いでくれる?と言われたけど、冬で寒かったし、怪我はしていないし、何より私はその頃、父親のせいで男性がひどく苦手だったので首を振って大丈夫ですと言った。裸足になって、怪我してないか見るから、と何度か男はしつこく言って、そのたび私が首を振っていると、男は突然、「じゃあ靴は脱がなくていいから、ここに脚乗せてくれる?」と台を示した。それで終わるならと思い、言われた通り台の上に脚を乗せると、靴を履いたまま傷も何も見えるはずがないのに、男は医者がするようにウーンと唸って、私の脚を見ていた。制服のスカートの中を見られていると気づくまで少し時間がかかった。体操服を中に着ていたし、別に見られても困らないと思ってその男が「いいよ」と言うまでのあいだ黙ってじっとしていた。その部屋を出てから近くにあったトイレに入った。蛍光灯は弱く薄暗くて、きつい芳香剤の匂いがした、タイルはピンク色だった、女子トイレだからだ。閉めた扉に背中を預けて、じっと立ち尽くして、しばらく動けなかった。何かすごく大切なものを失ってしまった気がして、とてつもない不安みたいな、焦りみたいな、恐怖に近かった、真っ暗な気持ちになってお腹の奥がきゅうっとした。「なにが、嫌だった?下着を見られたわけでもないし、触られてもないのに、変なことされたってママに言えるの?わたしの勘違いだったらどうするの?あのおじさんにはそんなつもり無かったかもしれないのに。」どんなに一生懸命考えたって、答えも解決策も分かるわけがない。そんなことは学校で習わないし、スカートの中を覗くなんて漫画の中だけだと思ってたし、実際クラスの男子にだってされたことなかった。でも本当は、言ったってどうにもならない、知らないふりして忘れるほうがずっと楽、そう思っていたんだと思う。結局そのことは誰にも言ってない。いま初めて書いている。いま、思い出せば腹が立って仕方がない。私が大人しそうだから、何か言っても首を振るばかりだから、誰にも言わないだろうから、そんなふうに馬鹿にしてあの男はあんなことをしたんだと、いまなら分かるからだ。あの男は、幼い私に大人になった今もなお消えない傷を残しただけでなく、私のことを大切におもって大切に育ててくれていた全てのひとたちの気持ちを踏みにじった。私はあの日、薄暗いトイレの中で見ていた、「みだしなみをたいせつに」というステッカーの、字体も添えられた花の絵も、今でも鮮明に思い出せるよ。

読んでくれと思って多分一生忘れないだろう衝撃的だった出来事を書いたけどまだまだある、それもこういう悪意ある性被害ばかりじゃない。この映画でジヨンが経験したほとんど、全部に近く、私は経験するか見聞きするかしている。私達が女であるがばかりに知らないといけない生きづらさや恐怖や憤怒。サリンジャーの『エズミに捧ぐ』の訳を比べてみたことがありますか、私にとってこの短編は本当に大切で特別なものだけど、野崎孝の訳で出会わなければその芸術を素晴らしいと思う尊い気持ちすら奪われてしまっていた、“man”を「人間」と訳すか「男」と訳すかのたったそれだけの違いでも、今の時代、この国で、何の悪意も汲み取らずに読み流す方が難しい。激しいロマンスやアクションや車の映画を「男の映画」って表現するのは当たり前なのに、強い女の映画をフェミニズムと捉えることは高尚すぎてナンセンスだと言われる。少子化対策とか、女は子供産めとか散々聞くけど「子連れで店なんか来るな」「邪魔、うるさい、家に帰ればいいのに」って居合わせた誰かの発言や、「子供って嫌い」「可愛いと思えない」って何のために言ってるのかわからないそんな意見に同調なんて欲しいかと思うような匿名SNSでの投稿の数々、こんな国で誰が喜んで子育てしたいと望めるか。その上、子供が虐待の末殺されたり育児放棄で保護されたり、そういうニュースが放たれるたびにネットで叩かれるのは母親ばっかり、どこ行ったの父親は。ママ友は怖い、主婦は楽、20代で結婚できない女は売れ残り、出産しないと女にはなれない、子育ては女ならみんなできる、女の子は口笛を吹いたらダメ、女の子は男の人に選んでもらうためにお化粧して綺麗にしてお淑やかにしてないとダメ。本当にこれのうち多くを女の子は聞きながら育つ、映画や小説の中のフィクションじゃないのよ。

電車で時々見かける前に立ってる女性の身体を眺め回す男とか、街でよく見かける若い女の子を狙ってわざとぶつかって逃げていく男。街でぶつかられた女の子は「うわっ」「おるよなーああいう奴」とかって逃げていった男の後ろ姿みて中指立てながら言ってる。スカートを履いたことがないから、子供産めないから、職場で不遇な扱いを受けたことがないから、そんな目で見られたことがないから、わかりませんというのなら想像してみるといい。世界で、いや日本だけでももう嘘だろと思うくらいにある痴漢やらセクハラやらの体験談、ネットで検索すればいくらでも読める。被害者が自分の娘・恋人・姉妹・母親・友人だったらどう思うか、想像してみるといい。そうでもしないと女性を一人の人間として考えられないなら。

私は女で、この性別のせいで受ける数々の嫌がらせとか不遇とかをそれなりに経験してきたと思ってるし、同じように苦しみ傷ついている女性の気持ちもたぶん分かることができると思う。でも、それでも私は、自分が知らぬ間に加害者になっていないか怖い。私は女の子のアイドルが大好きだけど、アイドルを女体か嫁か母としてしか見てないヤバイ奴のヤバイ思想に加担していないだろうかと、そもそもこんな性差別に溢れた国で女の子のアイドルを好きでいられるって私だってもう相当ヤバイんじゃないだろうかと、夜中考えすぎて自己嫌悪に陥って泣いてしまうことも多くある。ずっと、抵抗してきたつもりだ。いやなことに、いやって言ってきたつもりだ。でも、「彼氏いるの?作れば?」「結婚して旦那に養ってもらえばいい」「女は子供できたら仕事辞めるからなぁ」そんなあり触れた会話には、ほとんど笑ってる。最近、ただ好きだったひとの話をしてただけなのに「処女?」って聞かれたとき私、本気で怒れなかったんだ、またか、もうどうでもいいわとさえ思ってた。あとから、もうつかれた、友達に話した時にようやくどんなに自分が嫌な気持ちになったのか気づいて涙が出た。

ただ、本当に、馬鹿にするなと言いたい。一人の人間を馬鹿にするなと言いたい。被害者になりたくない。虐められたくないし、屈したくないし、馬鹿にされたくないし、嫌な思いをしたくない。不幸自慢とか被害者面とかそんな便利な言葉で私達の口を塞ぐのを辞めてほしい。女よりも妻よりも母よりも、わたしはわたしでいたい、その言葉をもう二度と殺さないでほしい。自分の生活や立場や芸術や身体や精神を自分のものにしたい、ただそれだけのために闘いと表現するほど全力を尽くさないといけないのは、おかしい。


「男にこの気持ちがわかるわけない」といくつもの嫌な経験について私が思っているくらい強く、わかりたいと願っている男性も、世の中には確かに居る。「僕が追い詰めたのかと」とコン・ユが泣くシーンで、わたしは彼を、子供みたいだとも、甘えてるとも、お前が追い詰めたんだよとも、一切思わなかった。わかってもらえないことはつらい。でもわかってあげられないことも、ものすごくつらい。そのつらさだって、わたしは馬鹿にはしない。わたしたちは違う。違う人間なんだよ。だから、理解することよりも、想像することが必要なんだよ。
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