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エッシャー 視覚の魔術師/エッシャー 無限の旅のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

3.4

このレビューはネタバレを含みます

 物心ついた頃に行った美術館の展示のはじめがエッシャーだった(母曰くマグリットが初美術館らしい)。もう摩訶不思議で楽しくて帰りにガチャガチャでキーホルダーを買った(苔のキーホルダーという地味なものだったが満足ぞ)。ちゃんとは知らなかったので知れて良かった。ただ情報量としては山田五郎のyoutubeの方が勝る(https://youtu.be/EN7fDnxWzV8)。今作はエッシャー自身が残した文字が原型であり、それをナレーションがエッシャーの代弁をする形で、彼の人となりなんかを理解するというタイプのドキュメンタリーだった。当人が映ってる映像は少ないものの、貴重な映像を拝見できてよかった。

 冒頭グラハム・ナッシュ登場!Animalsのエリック・バードンからエッシャーの本を受け取り衝撃を受けたとか。エッシャーはサイケムーブに持ち上げられ再評価されていたが、当人はかなり堅物っぽく、それをあまり受け入れていないようだった。彼自身はかなりの努力家というか、絵への探究心が凄いようで(後年の画力の半端なさよ)、ヒッピーの軽薄さとは相容れなかったのだろう。文脈を読み取ってくれない孤独感もあったそうで。しかし芸術が幾重にもその”誤読”から発展したように、理解できないからこそ後世に多大な影響を及ぼしたのだろう。劇中引用される「インセプション」から、エンドロールに付随したその他エッシャーの影響下にある作品たちの数々。特にノーランは「インセプション」だけでなく「インターステラー」の5次元描写なんかの源流でもあると言っていいだろう。

 愛する人に焦がれる思いや、旅をしては夢見心地な感じなど、普遍的な感情が多い。「自分は天才ではない」と本人が言うように、彼自身かなり生き方は慎ましかったように思える。ある版画作品で妻の顔を輪にしようとしたが、その輪は端に繋げるものがなかった。誰かもう一人横に描けば完成する。しかし誰を描こうか。息子が父さんを描けばいいじゃないと提案。無機的な絵柄からはわからないちょっとハートフルな絵画の背景だった。

 イタリアでの夜景を好み、スイスでの雪景色に耐えられないというエッシャー。空白恐怖症なのだろうか。代わりに好むのはアルハンブラ宮殿のような密なアラベスク、または自然の複雑さであったりして、彼の絵画が当人の性格が反映されたものであることがよくわかった。

「眼」(1946年)
他人を見ている時、その目に見ている自分が映っている。そこで眼の中に髑髏を描いてみようと試みたそうだ、見たもの全て死が待っている。劇中はこの程度の説明で終わっていたが、調べたところ、恩師のメスキータがアウシュヴィッツで亡くなったのが1944年であり、おそらくそのことは今作に影響を与えているように思う。ナチス台頭の世情で、メメントモリの思いは強かったのだろう。それにしても今作、既視感があるなと思ったのはマグリットの絵との類似についてだ。同じように目をデカデカと描いた「偽りの鏡」(1928年)という作品がマグリットの絵にある。これも目に反射されることについての絵であった。マグリットは、鑑賞者を通り抜けて瞳に青空が映し出されていることから絵画の偽りをあぶり出しているように思えた。エッシャーは、鑑賞者をすり抜けて頭蓋を露わにしてしまう絵画だった。鑑賞者を通過してしまう視線という類似、果てが青空と頭蓋である違いはあれど、どちらも虚空なものとして我々に突きつけられているように思えた。

 曲の中で同じモチーフを繰り返し扱うバッハの楽曲に共鳴したというエッシャー。絵画そのものの内容もさることながら、自身で刷りも行い過去の作品と何度も対峙していたことがわかる。その反復はかなり長く辛いものだろう、同じことの繰り返しの果てに何があるのかと、自分なら不安になる。でもだからこそ、あの理路整然とした作品ができるんだろうな。普通に人の手だけじゃできないよあんな絵は。
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