マティス

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ 完全版のマティスのネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

ヌードルスのあの笑い、マウントをとるということ


 クリント・イーストウッドの「クライ・マッチョ」絡みでもう一本。
 この作品は、イーストウッドがスターになるきっかけを掴んだ「荒野の用心棒」を撮ったセルジオ・レオーネ監督の遺作だ。偶然だが、彼も小津安二郎と同じ60才で亡くなっている。「秋刀魚の味」と同様に遺作になるとは思いもしなかっただろう。

 この作品を初めて観たときに感じた恐ろしさを思い出すと、今でもゾッとする。私には忘れられない作品。DVDを持っているのに、ブルーレイを購入したのはこの作品ともうひとつだけ。

 始まって、最初は普通に観ていた。いや、最後まで普通に観ていた。背筋が凍りついたのは、最後の最後、エンドロールでヌードルスのあの笑いを観た時だ。あのヌードルスは自分だと思った。

 私が最後まで思っていたストーリーはこんな具合だ。
 ヌードルスとマックスは無二の親友だった。デボラと一緒にいるときでも、マックスから呼び出されると、「ママが呼んでるから行ってらっしゃい」と馬鹿にされても駆け出すヌードルスだった。
 そんなヌードルスだったから、マックスからFRBを襲うつもりだと計画を聞かされた時に、本当に実行するとマックスを失ってしまうと思い詰めた。悩んだ彼は、FRBを襲う前の小さな仕事の時に警察に密告して、マックスを逮捕させようとした。逮捕は、死ぬよりもましだ。すべてはマックスを救うためだった。マックスの掌で踊らされていることも知らずに・・・。

 30年の時を経て、マックスから真相を聞き、ヌードルスは自分がかつがれ、金も恋人も人生も奪われたことを知った。
 「俺はお前に借りがある。俺を殺して恨みを晴らせ」というマックスに、「俺の昔話は単純だ。昔、親友がいた。命を救おうとしたが殺された。いい友情だった。ただ、二人とも不幸だった」と言って、ヌードルスは立ち去った。

 たしかにヌードルスは、親友だと思っていた男に騙されたが、それに気づいても怒りに身を任せることをしなかった。暴力ではなく、人間力でマックスを圧倒したんだと思った。ヌードルスにとことん打ちのめされたマックスは、自分はゴミだと、用意しておいたゴミ収集車の中に身を投じた。
 ここまででも、普通に良い作品だった。でも、エンドロールのあのヌードルスの笑いが、この作品を私にとって特別な作品にした。

 ヌードルスは3人が警察との銃撃戦の末に射殺されたことを見届けて、アヘン窟に入った。
 甦る仲間との思い出。なかでもマックスは特別な奴だった。俺の密告のせいで彼を死なせてしまった。永遠の別れ、悔悟の念・・・。
 しかし、こみ上げてきたものは悲しみではなかったのだ。それは喜びだった。

 思い返すと、最初の出会いから彼にしてやられた。あいつは俺にとって目の上のたんこぶだった。あいつがいなくなってせいせいした。金も独り占めできる。それがあの笑いだ。

 心の奥底に潜んでいたヌードルスの本当の心根。なんとおぞましく、どす黒い。しかも、得意の絶頂にいると思っていたその時に、彼は金も恋人も人生も、奪われつつあったのだ。なんというマヌケ。あぁ、このマヌケは自分だ、と思って凍りついたというわけ。

 この伏線があるとすると、なぜヌードルスはマックスを撃ち殺さなかったのかという疑問が湧く。マックスには知られていないが、ヌードルスにとってマックスは真の親友ではなかったのだから。
 30年の時が彼を成長させ、怒りの感情を変質させたのか。怒りに身を任せてマックスを殺しても、一時スッとするだけで割に合わないと思ったのか。マックスの最後の望みをかなえないことが、ヌードルスにとっての復讐だったのか。やはり親友だと気づいたのか。それとも、マックスに対して俺は大きい人間なんだと見せつけたかったのか。それは、今でいうマウントを取るような行為なのか・・・。

 そこで、マックスの告白の後、ヌードルスが立ち去る場面のシナリオBだ。
 ヌードルスは言う。
 「お前は俺に貸しなんかない。実はあの時、お前の死を喜んだ自分がいた。俺とお前は同じ穴の狢だ。チャンスがあれば、俺がお前をはめていたかも知れないんだ。お前を殺す理由なんか、これっぽっちもないんだ。」

 もちろん、こんなセリフを言ってしまったらこの作品は成り立たない。マックスの告白、懇願、ヌードルスの無視、最後の笑いがあるからこの作品がある。

 でも、現実の生活、人生に置き換えたらどうだろう。この作品のヌードルスは、マックスが死んだことを見届けた後、どのような人生を送るのだろうかと思う。「俺はお前と同じだ」と言っていれば、再出発できたような気がする。マックスとの関係性はもう問題ではない。自分がどう生きていくかの自分自身の問題だと思える。

 もし相手が自分を過大評価した場合、「いや、自分はそんな立派な男ではありません」と本当の自分、等身大の自分をさらけ出すのはマヌケなことなのだろうか。相手が勝手にそう思ったのだから、そう思わしとけ、みたいな考え方もあるだろう。もっと積極的に自分を大きく見せるような行為をすれば、それをマウントを取るというのだろう。でもそれは虚像だ。

 この作品は、自分の奥底にあるモノと向き合うということを気づかせてくれた。地下鉄でお年寄りに席を譲るとして、それは本当に親切心から出たものなのか、立派な自分に満足するための自分向けの行為なのか、そんなややこしい自問自答を時折してしまう、面倒くさい自分がいる。

 セルジオ・レオーネは深い作品を撮ったなぁと思う(私にとってですけど)。なんでこんな作品にたどり着いたのだろう。彼にはマカロニウェスタンの先駆けというイメージしかなかった。でも、考えてみると、「ウェスタン(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト)」は少し風変わりな作品だった。
 彼は下積みが長く、賞には無縁だった。エンタメものを撮りながら実績を積んで、じっと機会を窺っていたのではないか。そして前作から10年以上のブランクを経て、この作品を撮っている。満を持して制作に取り掛かったのだろうが、公開時には時系列に手を加えられ、上映時間も短くされたらしい。さぞや不本意だったと思う。彼は、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・シチリア」か「イン・イタリア」を撮りたかったのではないか。観てみたかったと思う。

 後日、クリント・イーストウッドは「許されざる者」でアカデミー作品賞を獲った。彼はエンドロールで、セルジオ・レオーネに献辞をささげている。いい話だなぁと思う。
マティス

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