マティス

花束みたいな恋をしたのマティスのネタバレレビュー・内容・結末

花束みたいな恋をした(2021年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

 いろいろなことを考えさせられた作品だった。
 普段は観ないジャンルだったけど、出張中の機内で観始めたらそのまま惹き込まれた。
 主人公二人のキャラクターの作り方を見れば、ストーリーの展開や結末もある程度想像出来たし、どんでん返しがないことも分かっていた。それでも観入ったのは、描かれている二人が、不器用だけど純粋で迷いがなく、今の自分と比べてその振る舞いが羨ましかったから。いいえ、今の自分ではなく主人公たちの年頃でも、あんな出会い方も付き合い方もできなかった。だから結末は分かっていても、どこかでこの二人がうまくいくといいなと思いながら観ていた。

 お互いに強い好意を持ちながら最後は別れるという結末は、「ローマの休日」が思い浮かぶ。私の好きな作品では「ストリート・オブ・ファイヤー」 (ご存知ない方も多いと思うが、私には王道のラブストーリー)や「ニュー・シネマ・パラダイス(完全オリジナル版)」などもそうだ。
 でもこの作品は、最後に別れるということは同じでも、それらの作品とニュアンスを異にしている。それは重心の位置の違い。重心が自分にあるのか、相手にあるのか、その違い。
 自分の今の気持ちを大切にしているということなんだろうけど、相手が幸せになって欲しいからというのはない。相手の幸せは自分の幸せでもある、というのもない。

 たぶん、どちらが良いとか悪いとかいうことではないように思う。時代が違うとまとめてしまえば、考えることを放棄したようだが、でもそんなことかなと思う。あえて言うならば、恋と愛の違いと言ったら良いのか。
 恋とは自己中心的なものだし、愛は相手を中心に思うことだと思っているから(異論は受け付けます)。私は常々、今の時代を自己愛が過剰な時代だと思っているが、そんなことにも通じていると思う。

 結末を想像していた私は、最初の綻びは何かなと思って観ていた。それは就活だった。
 二人の将来を考えて安定した暮らしが必要と思い、一旦自分の夢を脇に置く麦。立派じゃん!自分らしさ、麦らしさをずっと失いたくない、失ってほしくないと考える絹。パートナーがそう思ってくれているんだったら、こんなにうれしいことはないなぁ。
 でも二人は、徐々にずれを意識するようになってくる。ずれが許せなくなってくる。私は画面を観ながら、自分が変わるかも知れないとか、相手が変わるかも知れないとかは考えないのだろうかと思う。
 真っ直ぐ進む車のハンドルにもあそびがあるように、キチキチに物事を考え過ぎると進み辛くなるから、ある程度の振れ幅は人にも必要だ。しかし、純粋な二人にはそのずれが許せない。あ~あ、こうしてポイント オブ ノーリターンまで来て、知らないうちに踏み越えて行くんだな。と、緩く表現したけど、要するに自分の価値観に合わない相手に我慢出来なくなったということ。それは恋の終わりを迎えたということ。
 そんなことで麦を、絹を失っていいの?ストライクゾーンが狭すぎる。だけど、後にお互い新しいパートナーを連れてカフェでばったり会った時に、二人には後悔はないようだった。私は余計な心配をしていたわけだ。

 私がいいなと思うのは、恋から始まって愛に移っていく関係。そして安定した愛の関係になっても、恋を感じられる関係。でもそれはなかなか難しい。始まりは、この人しかいないと思っていても、一緒に過ごしていくうちに、なんだか違うと思うことはあると思う。そんなことがほとんどかも知れない。付き合い始めたら、寄り添い続けないといけないという訳ではないし。一方で、「愛を綴る女」のように、恋も愛もなく一緒に暮らし始めた二人が、最後は愛で結ばれるような話もある。映画だけかも知れないけど。

 彼らが次の出会いを大切にしてくれたらいいな、と観終わった後思ったが、しばらくするとそれはオジサンの思い違いどころか、価値観の押しつけじゃないかと思うようになった。
 彼らは、ただ恋をする過程でいろいろな場面を楽しみたかっただけなのかも知れない、自分の価値観を歪めてまで、誰かと付き合いたいと思っているわけではないのかも知れない、と思い始めた。それがもしかしたら「花束みたいな恋」ということなのかな(「花束みたいな恋」ってどんな恋なんだろうと観ている間、ずっと思っていた)と思い当たった。
 いろいろな花を束ねていても、何か一つの花で花束をもらったとしても、もらった瞬間はワーッとなるが、その花束の美しさは永遠ではない。美しいものを、短い間だけでも良いから楽しみたいということなのかな。私には合わないけど、自分の価値観を大事にしたい人はそれでも良いのかな。
 マーガレットの花言葉には真実の愛があるけど、絹が名前を教えなかったのはそういうことなんだろうか。


余談

 今村夏子を初めて読んだ。漏れ伝わってくる話では、どうも私が苦手そうな作家だったので、これまで手を付けなかった。
 この作品で、麦と絹の二人が圧迫面接やクレーマーに傷つけられた時に、お互いに相手を励ますつもりで、「あなたを傷つけた人は今村夏子の「ピクニック」を読んでも何も感じない人なのよ、だから気にする必要はない」みたいなことを言っていた。
 「ピクニック」を読んでみて、この小説に共感する人がいるのも分かる。でも、この小説に共感する人はいい人で、共感しない人は悪い人みたいな境界線を引くのは違うと思う。共感する人でも圧迫面接をする人はいるだろうし、クレーマーになる人もいると思う。

 私には今村夏子は、新手の村上春樹のように感じられた。今でこそ、「村上春樹ってそんなにいい?」なんて会話をしても変な目で見られることはなくなったが、一時期、村上春樹が分からない人は感性が鈍い人、みたいな雰囲気があった。ただ村上春樹の作品が好きかそうじゃないかだけの違いだけなのに。
 自分や自分たちを特別な存在だと思いたい気持ちは分かるけど、そんなことは不毛だし、社会や人間関係を分断するだけだ。
 今村夏子の作品のことでそこまで言うのは飛躍しすぎかも知れないが、ちょっと気になった。
マティス

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