Oto

街の上でのOtoのレビュー・感想・評価

街の上で(2019年製作の映画)
4.0
2022.4.10。二度目の鑑賞。

監督と最近お話しさせてもらう機会があったので改めてみなおしたけど、やっぱり面白かったな...。人と話すのが好きで接客バイトを10個以上やってきたと「コンテンツHolic」で言っていたけど、そういう人の些細な言動への興味とかがすごく生かされているのかもしれない。

田辺との芝居練習、間宮との対峙、イハとの長回し、5人の大円団は特に、すごいものを見てる感覚があるし、ひとりでみてても笑える。監督自身は目玉のシーンを作ろうという意識はなくて全シーン面白くしたいと思っていると仰っていたけど、クライマックスの畳み掛けがなかったらやっぱりここまで評価されていないんじゃないかなと思う。

雪の素直にならない魅力と、青の人のために優しくなりすぎる魅力が、存分に発揮されているからだろうと思う。国井(3人目の彼氏)の登場がスパイスとして効きすぎてて、こういうコント書きたい。「あんたは誰だよ!」

今泉さんの映画の好きなところって、自分でも何か作れるかもって思わさせてくれるところかもしれない。実際はすごくプロッフェショナルで難しいことをしているのはわかっているけど、力の抜けた感じというかフットワークの軽さというか、もっと気楽に表現をしていいんだよ、伝えたいことなんて後からついてくるよ、みたいな雰囲気があってそれが良い。初期から、同世代の自主映画監督より気楽に多作で撮っていたという話をご本人から聞いたけど、それが作家性にもつながっていると思う。

シーンを全部書き起こしてみたけど、2時間越えで40シーン至っていないの驚異的だな〜。FIX長回しが非常に多くて、本当に「人」や「役者」の魅力を映しているな〜と思う(テーマが街にあるといえど)。撮影ってもちろん大事だけど、やっぱり芝居の重要性を感じる。

若葉さんがやりすぎているシーンがいくつかあるという話をしていたけどどこなんだろう。個人的には警官とのやりとりとかおじいさんとのやりとりの方が「コント」っぽさを感じてしまって作り物っぽさを感じたりした。

着想は「古着屋やっている男が映画に誘われる」という大まかな流れが最初にできて、そこから詰めていったとのこと。監督自身が好きな場所やカルチャーしか出てこなかったり、恋愛も自身の実話が基になっていたり(「AVで勉強しろ」や風俗の「髪が固まっていた」話など)、いわゆる「企画のストック」みたいなことはしていないにしても、日常の出来事に対するセンサーが常に張られているんだな〜と感じた。

青、「誰も見ることはない」にせよ、めちゃくちゃモテてるんだよな。常連に映画に誘われる、本屋さんが話しかけてくれて練習手伝ってくれる、その日あった女の子が朝まで泊めてくれる、成田凌よりも一緒にいたいと認められてる。
そこが個人的は共感しきれないポイントというか、「流される」生き方ができるってことは、誰かから必要とされてるってことで、例えばもっと魅力が足りない、というか「気にならない」主人公だったらこの物語は成立しなかったよなと思ってしまったりもする。
しっかり相手の言葉を受けてツッコんでいたり、落ち込んでいる田辺にかわなべさんの声を聞かせるみたいな気遣いがあったり、そういうところがモテ要素だと思うけど。

変わっていく時の中で、みんなが替わりを探す中で、変わらない想い。「誰ひとりきみの代わりはいないけど上位互換が出回っている」「いつまでもそこで苦しまなくていいきみの代わりはいくらでもいる」。

<映画の構成>
①読書の連続撮影ショット。一人だけ不自然な青。「これはとある映画に存在するはずだった私が見たかった映像。誰も見ることはないけど確かにここに存在している」 T「街の上で」
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②夜の下北の街の背面ショットでみん亭へ。音楽。
③みん亭。ラーメンをすする女を見つめる青。
④青の自宅。別れ話を告げられて「絶対別れないから」
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⑤古着屋。好きな男の告白用の服を選ぶ女にいちゃもんをつけられる。
⑥スリーでLIVE鑑賞。涙を流す女性に見惚れる。
⑦喫煙所。タバコを2本もらってくれるがなにもない。
⑧スズナリ。路上喫煙を注意された警官に姪っ子が好きなことを告げられる。
・睡蓮前。横断歩道を渡る。
⑨水蓮。小説家をやめて役作りに熱中する男。ユキに連絡をとっていることをマスターから叱られる。
⑩自宅。ゆきの名前を一人で呼ぶ。
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11)古書ビビビ。音楽をやっていたことを田辺に聞かれ、亡くなった店長とできてたか尋ねると拗ねられる。
12)古着屋。読書をする青。謝罪の電話をかける。
13)CCC。ヴェンダースの話を知る男たち。魚喃キリコの聖地巡礼をする女子。マスター「創作物ってすごいよね、街より長く残る」青「でも街もすごい、あったことは事実」
14)白鳥座。聖地巡礼女子の写真を撮ってあげるバイト。
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・古着屋の店先で喫煙して中へ。続いて町子が入る。
15)古着屋。映画への出演を青に依頼する町子。
16)水蓮。マスターに出演すべきか相談する青。役を奪われた男は絶望で泥酔。
17)自宅。自らの読書姿をスマホで撮ってみる青。
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18)古書ビビビ。田辺に改めて謝罪すると留守電をその場で聞く。田辺を誘う。
19)古着屋。読書の練習を撮ってもらう。本からかわなべさんの手紙が落ちてきて実は奥さんがいなかったとわかる。不倫相手ばかりだった田辺は留守電を聞いて泣く。
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20)映画のロケ地へ移動するクルー。
・青を助監督に紹介する町子。
・アパートの一室へと案内されて助監督と入っていく青。
21)控室。おじいさんと二人、朝ドラ俳優と勘違いされる。着替えを渡されるが同じ服で出演者が到着。間宮もやってきて元カノがファンだと伝える。
22)プロパガンダ。間宮と対照的に、ぎこちない芝居でテイクを重ねる青。結局スタッフを代わりに撮影。
23)控室。冗談のつもりが、監督から本当にカットを告げられる青。飲みに誘われる。
24)にしんば。青のせいで喧嘩を始める監督と元彼スタッフ(熊切監督を引用)。イハが隣にやってきて日本酒を飲む。
25)路上。帰ろうとするとイハに「ホーム」に誘われる青。
・控室。実はイハの自宅。
26)撮影準備の布の手伝い。実は恋愛がうまくいっていない間宮の話題から、ゆきのことを話す。
27)みん亭(インサート)。実は前にお店であった風俗嬢がラーメンを食べていた。
28)イハ宅。逆にイハの恋愛について聞く青。「このままの距離感で付き合えたらいいのに」「でも嫉妬って相手を好きな決定的な証拠」
29)ユキ宅。間宮に別れ話を告げる。青といた時の方が楽しかったと告げる。
30)イハ宅。付き合ったけど話したくない相手がいるイハ。別れを認めてくれない彼氏が来る可能性がある。でも泊まることにする青。
31)ユキ宅。元彼に会わせてほしいと冗談めいて伝える間宮。
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32)イハ宅。青を起こすイハ。
・イハの元彼と玄関で遭遇し撃退。
33)路上。青を送るイハ。ゆきとマスターと遭遇して疑う。先ほどの元彼も通りがかって、青も関係を疑われる。しかし、お互いまだ気持ちがあることがわかって、ゆきは自転車で逃走。
34)路上。警官に職質されるゆき。姪っ子の話をきっかけに青に想いを伝えようと決める。自転車を置いて去る。
・青に電話する雪。
35)青の自宅。カセットテープを見つけ、チーズケーキの歌を弾き語り。そこに間宮を連れてゆきがくる。青「いいの?めっちゃファンだったじゃん、追いかけなよ!すごいことだよ、間宮武だよ」ゆき「バカ!」「好き」(重なる拍手)
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36)トリウッド。上映挨拶をする町子。上映後に田辺がやってきて、青の出演カットに対して怒る。イハが仲裁して芝居が下手だったと伝える。荒川とゆきの関係を確認するイハ。
37)水蓮。謝りにくる力士。
38)古着屋。イハがやってくる。出演していたと嘘をつく。
39)青の自宅。ゆきが先に来ている。冷蔵庫から別れた時のバースデーケーキを出して、腐っていることに恐れず二人で食べる。

*「きっかけ」である「映画に誘われる」が既に40分。冒頭でフラれていたり、田辺から嫌われそうになったり、という女性がらみのことで興味が持続しているように感じる。『ハッピーアワー』と同様に、4人の女性それぞれの個性が立っている群像劇。

※シナリオから削られてるパートが多い。特に説明的になりすぎるところや、ちょっと冗長になりそうなところ(例えば雪が水蓮に行くシーンなど)。リアルな間尺の作品だけど、退屈にさせない工夫はちゃんとされてるのがわかる。
イハの元カレと、水蓮に謝りに行く関取は、同一人物なのか…?イハはどうしてあんなに広い家にいるのか…?とか謎は多い。

2022.12追記

カフェですごい話すし、初対面で家に泊まるし、大丈夫?と言われることがあるらしい。でも監督自身、良くも悪くも「危ない」という感覚がない。よくTwitterで募集して知らない人と飲んでいるくらい。ただ女性はなかなかできない特権的なことでもあるし、ミソジニーという批判も受けたことがあるとのこと。
でも男女の関係を期待してるわけじゃない、青は好きな人がいるので、イハに求められても断っている可能性もある、監督自身にそういう経験がある。

監督自身、一度もフラれたことがない(全て自分からフってきた)し、若い頃には「誰も好きになってはいけない」という状態が嫌で、別に好きな人もいないのにフったりしていたそう。
じゃあなんで青みたいな一途な人間が描写できるんだろう、って気になるんだけど、今はむしろ自分の方が奥さんが好きという自負があって、向こうはそんなに興味ないのが心地いいから、と言っていたので、変わられたということなのかな。両方経験したことで両方の気持ちがわかるのか...。

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2021.4.13? 1度目。

「自主映画の最高峰」みたいな心地いい映画。

高校時代に作った自分の曲を思い出して弾いたり、飲み会に馴染めなくて少人数で逃げたり、自主映画に知り合いを誘ったり、カフェでヴェンダースの話をしたり、なんでもない、周りは誰も知らないような瞬間がすごく尊いものに感じられた。ジャームッシュ(×カウリスマキ)という着想だったと聞いて納得したし、オリジナル脚本ということもあって今泉さんの純度が高い。

監督が好きな人を撮っているんだな〜というのがすごく伝わって、もはや「今泉組」みたいな俳優陣。情けない・上手くいかない・受け身の人物が好きと監督がよく言っているけど、彼女にふられて、でも未練たらたらで、緊張しすぎて芝居ができなくて、だけど周りから愛されているという、Twitterで日々観測している監督と重なるような人物だな〜と感じた。
それは自分にはない魅力だったりするので、重なる部分もありつつどこか自分の物語ではない、という不思議な距離感で観ていた気がする。「余計なことを言う人」って主人公としてすごく魅力的で、おそらく現実世界でも珍しい事件にたくさん巻き込まれたりするんだろうけれど、自分は他人の目を気にして踏みとどまってしまうだろうなーと思う。そういう意味では『愛がなんだ』の方が自分の映画だーと思って観た。
演出も関西弁だったり、ハスキーボイスだったり、個性を生かしているのが伝わる。タカハシシンノスケさん、一度見たら忘れない顔出しすごくいいな...。「男2人女1人の映画撮るなら、トリュフォーより面白いもの撮れる気あるのか?」という熊切和嘉監督の引用のセリフとかもめっちゃ心当たりあった。

この映画を観に行くのに井の頭線に乗って行ったし、知っている場所ばかりだし登場する人たちと興味も近いので、劇中でも魚喃さんの漫画の聖地巡礼をしているけれど、ロケ地巡りたくなる気持ちにすごく共感した。CCCのパスタとにしんばの刺身は美味いし、珉亭のピンク炒飯久しぶりに食べたいな〜よく撮影許してもらえたな〜とか、空間配置に嘘をつかずに正しい道順で描いているのもすごく良かった。古書ビビビ、ヒッコリー、THREE、スズナリ、名前は知っていても足は運んでいない場所も多い。
工事シーンが出てくるけれど、そもそも下北映画祭向けに変わっていく下北を残すという意図があったようで、自分にとってもいつか観直した時にこれを観た時の自分自身を思い出すアルバムのような映画になるんだろうなと思った。

「友達と友人」の話があった(『アメリカの友人』は自分もまだ観ていない)けれど、自分を省みると"友達"が減って"友人"が増えていってるような気がする。「周りにいる5人の平均が自分」みたいなことを聞いたことがあるけれど、自分の周りにはいま5人もいないな〜なんてことを思って寂しくなったりした。
青のような誘ったらふらっと来てくれそうなフットワークの軽さ(執着と自由のバランス感覚)って自分にとってはすごく魅力的に映って、マツコが言っていた「自分の意志を貫いて頑張る人は凄いけど、自分を持ってなくて周りに流される人も自分の知らない所に辿り着けるからそれも良いのよ」って言葉を思い出したりした。

今泉作品を適切に形容しているのは"リアル"よりも"等身大"なのかもしれないと思ったりした。17分ワンカットのリビングシーンとかまさにその象徴だなと思って、二人の距離がほんの少し近づくという些細でどうでもいい話を面白く切り取るという意味では右に出る人はいないと思うし、この方向を目指している自主監督とかって結構絶望するんじゃないかな〜と思った(映画学校の同期が10分ワンカットの会話劇を撮ってきたときに、監督講評が"面白い"VS"こんなのはいくらでもある"で割れていたのを思い出した)。
もしかするとこの実在感は何もないシーンを編集で切っていないからこそ生まれているものなのかなとも思って、『こっぴどい猫』観たときとかこの意味のない長回しはなんなんだ?と思ってしまったりしたのだけど、今作に関しては不要と感じる部分は全くなかった。メンソールの女とか思い返すとそんなに効いていないような気もするのだけど、やっぱり印象に残っているなー。「見やすい」だけでない「つっかかり」みたいなものが必要と監督が言っていた意味がわかる。倒置法から「えっ」まで細かく台詞に書いたり普段使う言葉しか使わないというのも効いてるのだと思った。
若葉さんが「役者はプロに近付けば近付くほど嘘くさくなっていく職業。いかに何者でもない自分でいられるかをすごく感じた、背筋の伸びるシーンでした」と漫画家の警察官の方との共演を振り返っていたのも学びがある。上手いってなんだろう。

創作に関しては、クリエイターの物語というほど仰々しいものではなく、まだ何者でもない人々の物語だったのが好きで、若葉さんも「下北沢は夢を追いかける人が途中に住む街であって終着点ではない」というようなことを言っていたけどまさにそうだな〜と思う。だけど、たしかに愛している創作物があって、それは街が変わっても「古着」のように受け継がれて残っていく。

ひとつテーマとして面白かったのは、終盤で出演シーンのカットを第三者が「存在の否定」と捉えていたところ。全然日の目を浴びないにしても、個人が楽しむためにする創作というのは絶対に肯定されるべきだと思うし、でもその一方でプロというのはクオリティのためには残酷な決断ができる人のことだと思うし、この展開に関しては考えさせられるものがあった。自分の創作物なんかを手伝ってもらうのは申し訳ないという気持ちが湧くこともあるし、何かを頼むときに相手の立場で考えるとすごく憂鬱になったりもする。
町子が田辺を突き放すところで、監督としては正しいけど、この人は人間としてかなり苦手だ〜と思ってしまったし。

ちょうど今日始まったとあるドラマを観ていて、恋バナを断った次のカットで流暢に話しているという笑い(理性が欲望に負ける瞬間)の描写にすごく似たものを感じ取ったり、空気感にはすごく似た部分があるな〜と思いつつ、やっぱり自分は本作の方が好きだな、というか映画というものが好きだ〜!!と改めて感じたのだけど、それはやはり「言葉」じゃなくて「映像」で描写しているかどうかということなのかもしれないと思った。
自分が笑ったシーンで特に覚えているのは、元彼が去った後の「ありがとう」、劇場でも大ウケだった5人集合の大円団だけど、セリフよりは間や表情や仕草の方が印象に残っていたりする。スマホの撮影者が変わるワンカットのシーンもなんかすごく可能性を感じて、自分の創作の種がありそうな感覚があった。一方で、古本屋で話しているときに客が入ってきて遮られたり、待っている彼女に話しかけようとしたら試着室が開いたり、自転車をきっかけとした警察との二度目のやりとりとかは、ちょっとコントめいてるな〜と感じてしまったりしたので、その境界が気になっている。坂道を自転車で登れないのは好き、実際は登れるシナリオだったらしいけど面白いから採用したのこと。
カット割を決めずに芝居を繰り返す、ということを監督が言っていたけど、舞台のように見えないのはなんなんだろうと考えると、やっぱり撮影や美術の力も大きいんだろうな〜と思ったりする。「群像劇は全員集合すれば終わらせられる」ってアトロクで監督が言っていたけど、『桐島』『ラブアゲイン』とか好きな映画を思い出すと確かにそうなっているし、今回は削ろうとしていたシーンだけど大橋さんの判断で残したというのも面白かった。
あと、古着屋の男の子、『あの頃。』でAV女優にお弁当渡す子だー!って気づいた時の気持ちよさ。当てがきで書いたらしい。

でも今回の鑑賞体験における一番の発見は、一緒に観た人がすごくこの映画に傷付けられていたことで、人が面白がるものにはやっぱり個人差があるんだな〜というか、もはや誰も傷つけずに創作するのは不可能なのかもということだった。これが映画を観てからこのレビューを書くまでにかなり時間がかかってしまった理由でもある。
この映画の住人には確実になれないという意識を持ってしまって、自分が否定されているように感じたと言っていたのだけど、たしかに「何もしなくてもそのままで魅力的だよ」というメッセージは、頑張って今の自分から変わろうと糸口を探して努力している人にとっては否定されているように感じかねないのかなと思った。もちろん自分も、相手を楽しませるために違う自分を演じようとする瞬間はあるけれど、そういう風にしか生きられなくて葛藤している人に対して「もっと自然でいいんだよ」って言うことは必ずしも救いにならないということを思った。特に「笑い」というのは常に加害性を孕んでいることが多くて、引きで見て笑っているように見えるあの人は寄ってみるとピエロの涙を流しているのかもしれないというのは忘れないようにしたい。

発想は変わっていく街と変わらない想いとの対比とのこと。

https://tokion.jp/2021/04/10/rikiya-imaizumis-over-the-town/
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