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アルベール・カミュのkuuのレビュー・感想・評価

アルベール・カミュ(2010年製作の映画)
3.6
『アルベール・カミュ』
原題 Camus.
製作年2010年。上映時間分。
妻に別れを切り出せないまま、数年ぶりに新作を完成させたアルベール・カミュが、亡くなるまでの数日、故郷のアルジェリアと母、パリでの作家生活と愛人たちを振り返る。
監督:ローラン・ジャウイ
出演者:ステファン・フライス、アヌーク・グリンベルク、ガエル・ボナ、ギョーム・ド・トンケデック、フロリー・オークレルク、ほか。

今作品は、オリバー・トッド(1929年生まれのジャーナリストで小説家)の伝記『アルベール・カミュ、ある人生』(『Albert Camus: A Life』英語版で既読)をもとに作られた。
アルベール・カミュ(1913-1960)は哲学者、作家、小説家、劇作家、ジャーナリスト(1957年にノーベル文学賞を受賞)であり、47歳の若さで交通事故によりこの世を去っている。
トリビア的なとこでは『さんまのからくりテレビ』などバラエティーに以前出てたセイン・カミュはカミュのお兄さんの孫。

オリヴィエ・トッドが自伝で書いているように、アルベール・カミュは非常に感動的で、かつ物議をかもす人物やったし、また、個人的には最も敬愛している人物やし、興味深く鑑賞しました。
このカミュの物語は、彼にとって最も重要な女性たちの視点から語られ描かれていました。
母、妻、そしてさまざまな恋人たち、特に俳優と、彼の人生の最後(46歳)には若いデンマーク人学生。
彼は、気まぐれな天才として描かれているが、神経質な妻や子供に責任を持つ男としては描かれていない。
そして特に哲学者としてはそうではない。
カミュ夫人を演じたアヌーク・グリンバーグが秀逸でした。


扨、今作品は、小生がこよなく敬愛してるカミュの伝記。
今作品だけで、つまりある側面からは彼の偉大さが伝わらないようでならない。
故に彼の代表作『異邦人』について、徒然に書きたいと思います。
今作品と関係性が薄いし、映画『異邦人』の感想欄で書けば良いんやけど、ここで記するのも場違いかと思うけど、カミュへの思い入れもありますし、長くなりますが徒然に。
もし、興味が有りましたら、読んでいただきましたら幸いです。

小説『異邦人』は映画でも描かれていて、なによりも衝撃的なフレーズからはじまります

"Aujourd'hui, maman est morte."
(きょう、ママンが死んだ。)

この小説は、カミュの世界的に広く知られた作品であり、カミュの初期の不条理に対する理解をはじめ、さまざまな哲学的概念を展開しています。
こないな小説を書いた作家なんかと前智識としてあれば、映画『アルベールカミュ』も楽しめるのではと思います。 
また、文章がお好きな方は『異邦人』の出版から数ヶ月後に発表されたエッセイ『シジフォスの神話』と合わせて読むと、カミュの不条理に対する理解をより抽象化した形で理解することができると思います🙇。
カミュは、この2作と、戯曲『カリギュラ』を同時期に執筆しています。
この2作を合わせると、彼の不条理の規範となるかな。

『異邦人』には興味を引く要素がいくつもある。
最も重要なんは、主人公ムルソーの問題であり、彼と彼の物語が、この小説で説かれる根本的な哲学をどのように表現しているのかということやと思います。
また、文章や象徴主義についても、それらがどのように議論される高次の概念と関係しているんか。
主人公ムルソーは静かな日常生活を送り、簡単な事務仕事と平凡な暮らしに満足している。
彼は過去もなく、明確な動機もない。
読者は、彼との固有の同志関係を認める限り、自分自身と自分の経験を投影し、親密に共感することを強いられる真っ白なキャンバスと云える。
せやけど、より倒錯的な意味で、ムルソーも我々も、自分の死と向き合ってそれを自覚するまでは、何の歴史も持たない。
ムルソーには、間違いなく二つの決定的な特徴がある。
それは、嘘をつかないこと。
彼は、自分の客観的な真実の見方を非常に厳格に守り、社会を支える小さな嘘に加担することで、それが他人に与える不快感を軽減することを拒んでいる。
この独断的な正直さは、確固たる道徳的立場から生まれたものじゃなく、むしろ、彼の無関心から生まれたものやと云える。
実際、この無関心がムルソーの第二の特徴である。
彼は死んだ母への悲しみを感じず、恋愛やキャリアへの願望を持たず、他者に対して道徳的判断を下さない。
死んだ母への悲しみも、恋愛や出世への憧れも、他人への道徳的判断もない。
彼はただ存在し、それで満足してる。
しかし、キルケゴールが存在の美学的領域を内部から爆発させたように、カミュは原則的な誠実さ、妥協のない誠実さの人生を送ることの不可能性を示している。
ムルソーは、社会が掲げる理想を、彼ら自身には不可能なまでに支持したために、社会から疎まれる。
彼の感情、思考、行為の間には完全な整合性があり、それは、この基準に達しない人々にとっては味気ないもの。
ムルソーは、自分たちの理想とする道徳観に直面したとき、それに耐えられず、偽善的で妄想的な社会のために、彼の罪と同じくらいに迫害される。
ムルソーが社会の脅威であるんは、彼が社会を弱体化させているからであり、そのために彼は死刑にされなければならない。
ムルソーの行動と倫理観は、カントの『定言命法』の理想に完全に合致しているけど、その結果、機械的で人間以下の存在になっている。
物語が進むにつれ、ムルソーは、このような倫理観の理想を支持する役割を担う社会の道徳的裁定者の偽善を見始め、彼らのレトリックの空虚さを嫌というほど思い知らされる。
獄中で死を待つ間、ムルソーは道徳性を求めて内向きになり、自分の死ではなく、自分を取り巻く人生の不条理に対する情念を募らせる。
ムルソーが不条理を意識しているかどうかについては、意見が分かれるとこやけど、しかし、この物語は、ムルソーが経験を通じて変容し、人生の不条理に気づいていく過程を描いているとする説もある。
カミュ自身は、ムルソーは小説全体を通して不条理を意識する人物であることを意図していたと述べており、あるレベルではそうであった可能性が高いようです。
ムルソー自身はしばしば異邦人とみなされるけど、この小説のタイトルは多くの点で皮肉である。
ムルソーは人生の不条理に気づくことで世界に対する神聖な知識を得るが、メシアニック・ジュダイズム(異邦人キリスト教徒が持たないユダヤ人としての民族意識や諸風習と、ユダヤ教の『律法』や基本教義・儀礼様式を保持したまま、ギリシア語でイエス・キリストと呼ばれるイェシュアすなわちナザレのイエスを、メシアすなわち救世主として認める信仰)的なイデオロギーや宗教の教義に必死にしがみついて、世界を永遠への道のりの一過性の足がかりとする人々こそ、真のアウトサイダー(異邦人)であると考える。
ムルソーは、この世の生が自分の唯一の生であると信じることによって、死を究極のニヒリズムの行為とし、この知識によって、物語の結末で、宗教や社会が定めた道徳の枠組みに従う人々には理解できないレベルの信憑性を獲得する。
人間性の体現者であるムルソーは、不可解なほど複雑であると同時に、とんでもなく単純化されている。
小説では、読者、語り手、三人称の登場人物の間には興味深い相互作用があり、彼らは皆、ムルソーの性格を違った風に捉えている。
読者の多くはムルソーを情緒不安定な人物と見ているかもしれないけど、他の登場人物が彼をそのように見ている証拠はほとんどなく、むしろ彼らは彼を完全な人間として扱い、その仲間や交際を求める。
しかし、ムルソーと関係を持つ人物もいるが、それらはすべて一方的であり、ムルソーは彼らの友情には無関心。
マリーとレイモン(最も親しい仲間)はムルソーの受動性を利用し、気に入らない反応は無視し、強引な反対をしないのを同意とみなしている。
彼らは、ムルソー自身は感じていない絆を想定している。
実際、ムルソーは他人に自分の反応を規定させ、自分のアイデンティティを形成することを許している。
ムルソーの感情のなさ、マリーやレイモンとの距離、そして自分自身との距離に、より客観的な視点を持つことになる。
実際、ムルソーは一人称の物語で主人公が期待するような読者への愛着を持たず、むしろ読者はムルソーが世界から離れていくのと同様に、ムルソーからも離れていくように感じられる。
マリーやレイモンが気づかないところで、ムルソーの人生の空白を認識し、彼を『見知らぬ人』と同一視する。
ムルソーの人間関係に対する特異なアプローチから、彼は知能が低い、あるいは精神的に何らかの欠陥があると指摘する論者もいる。
しかし、カミュ自身と語り手の人生を比較することで、この考えを払拭することができる。
ムルソーは、カミュと同様、父親を物心つく前に亡くしており、カミュと同様、大学に通っている。
また、登場人物はしばしばムルソーの知性を評しており、レイモンは感情的に重要な手紙を書くよう彼に依頼する。
したがって、ムルソーに知性が欠けているのではなく、彼の自閉的な態度は、一部の批評家が指摘するように、無知の結果ではなく、客観的な正直さに厳格に従った結果であると結論づけることができるんじゃないかな。
しかし、ムルソーに特別なところがないのは事実で、彼は常人であり、我々自身の存在の暗号であり、客観的な真理に対する彼の気障な固執のためにのみ熟考に値する。
彼は、自分が選んだ人生を続けることを許される以外、何の願望も持っていない。雇用主からの昇進の申し出を拒否し、マリーからの結婚の申し出にも無関心である。
ムルソーは無関心なをじゃなく、他の人たちと同じように人生にコミットしていないだけ。
小説の直前、ムルソーの母親の死は大きな意味を持つ。
母の死後、『(自分の)人生は何も変わっていない』という彼の主張にもかかわらず、潜在意識のレベルでは、ムルソーは母や母の葬儀から決して解放されていない。
実存的な意味でも物語上の意味でも、それらはムルソーを最終的に破滅に導く出発点なんやと思う。
ムルソーの母が晩年を過ごした家、ムルソーが母を置いた家は、地球を象徴してて、老いと病弱によって死を宣告された男女で満たされた牢獄。
母親とその友人ペレスは、真の関係を築き、希望を信じることによって、不条理に対処していた。この象徴的な牢獄の出口は一つしかなく、後にムルソーは母親と同じ状況に直面し、投獄される。ムルソーは母親と違って悔い改めず、宗教に帰依するが、そこには人間の苦境の循環性、必然性が頷ける。
母親が終わりの始まりであるにもかかわらず、ムルソーの葬儀は、死を知ること、その必然性を知ることが、真の意味での生の始まりであるという、実存のパラドックスをも象徴している。
ムルソーは母の棺のそばに座り、12人の人々(10人の老人、管理人、看護婦)に見守られる。彼らは象徴的な陪審員を構成して彼を裁き、彼らは後に彼を非難する陪審員を予見しているのだ。ムルソーはこの場面で若さと活力を、棺は不毛と死を、見物人はこの対極にある調停点を表している。
ムルソーはその厳しい現実から逃げ出したい衝動に駆られるほど、圧迫感のある白い部屋で行われる。
しかし、社会の秩序に縛られているムルソーは、物理的にその場を離れることができず、その光景に目を閉じ、やがて眠りに落ちる。
部屋の明るい光は、死の圧倒的な感覚と、ムルソーが認めようとしない不条理の知識を表し、物理的に目覚められないのは、死の暗示に隠喩的に目覚めることができないことを象徴している。
この明るさは、繰り返されるイメージである太陽の象徴と結びついており、このシーンそのものが、燃える太陽が大きな役割を果たすアラブ人の銃撃と結びついている。
『異邦人』の中で語られる真正性と不条理という概念は、カミュがこの概念を早くから認識していた証拠であり、ニーチェの著作を引用しているけど、カミュ自身もその恩義を認めている。
ムルソーちゅうキャラは、『シジフォスの神話』で示された虚無的個人主義、一般に不条理と呼ばれるものを、霊的なものが選んだ宗教を体現するのと同じくらい激しく体現しているんやと思う。
ムルソーの人生に対する絶対的で揺るぎない無関心は、社会が人間の行動に課す不条理な規制、つまり、人間の存在を規制し制限する仕組みに意味を見出すことができない結果やし、無関心は究極のニヒリズムの表現であり、それは過激であり、生からの離脱においてムルソーに残されたのは死だけです。
カミュは1956年に、ムルソーを『小説の最初から人生の不条理を意識している人間』として表現することを意図し、そのために行動主義の手法を小説の前半に用いたと述べている。
ここで意見が分かれる。
逆に、ムルソーは小説の前半では不条理に対する自覚を欠いているように見えるが、彼の行動は自覚を意味しており、自覚がなければ不可解である、と主張する批評家もいる。
ムルソーの行動とカミュの主張を考慮すっと、ムルソーは小説の前半では人生の不条理を潜在意識的なレベルで理解してて、後半になってようやくこの考えが明晰になると考えざるを得ない。
ムルソーは、不条理を完全に認めた上で、本物の存在にコミットし、それがもたらすペーソスにコミットする。
キルケゴールとは異なり、カミュは厳格な内在性の立場をとり、超越や神の秩序原理の可能性を否定し、不条理な信仰の飛躍をするんじゃなく、不条理な運命を受け入れ、その知識に従って、外部の力や意味を考えずに生きることが反抗であると示唆していると云える。
ムルソーは投獄されている間に、自分の不条理感と世界の不条理との結びつきを感じ、それを自分のものとして主張し、これまで潜在意識レベルでしか知らなかったものを意識レベルで受け入れる。
この洞察が、哲学上の双子のシジフォスと同じように、ムルソーに幸福をもたらす。
ムルソーの人生に対する絶対的で揺るぎない無関心は、社会が人間の行動に課す不条理な規制、つまり人間の存在を規制し制限する仕組みに意味を見出すことができない結果なんやろな。
無関心は究極のニヒリズムの表現であり、それは過激であり、生からの離脱においてムルソーに残されたのは死だけ。
ムルソーが断罪されるのは、その犯罪のためではなく、社会の不条理な慣習に参加しなかったからである。
しかし、この裁判は社会の内なる不条理を超現実的に投影したものである一方、ムルソーが告発された殺人を犯したことは疑いようのない事実かな。
カミュの立場は曖昧で、真正性を追求するために死を引き起こすことが許されるのかどうか、解決されることはない。
引き金が『道を譲った』ことで、ムルソーの受動性が示されるが、この意図の無邪気さ、不条理に直面した良心の明晰さが、その行為自体から罪を軽減するのに十分であるかどうかは、明らかでない。
どのような道徳的立場をとるにせよ、この裁判のダイナミズムは複雑です。
裁判をパロディとして見せることで、裁判官を暗に非難している。
しかし、裁判官はその立場に縛られている。
死刑囚だけが享受できる自由があり、それがムルソーに不条理を自覚する余地を与えているのかもしれない。
しかし、彼が変化し、本物の人生に向かい始めた矢先に死刑を宣告することには、激しい残酷さがある。
不条理を認め、社会の無意味な規則によって生きることを拒否したムルソーを死刑にするのは、不条理に耐えられない者たちが、キリストの復活と処刑によってもたらされた約束に自ら身を委ねるという皮肉がある。
ムルソーは、超越的なイデオロギーを断固として拒否し、司法的、実存的な意味での死刑を受け入れてい。
ムルソーに罪があるとすれば、それはすべての人間と同じように、不条理な世界の一部となる。
『異邦人』における運命は、超越的な力によってあらかじめ決められた道という意味じゃなく、カミュの云うように、運命とは単に『人はみな死ぬ』という観念だ。
『異邦人』との関連で云えば、運命という概念を自由を否定するもの、つまり、人の存在を制限し、死を象徴する日常の力に当てはめることができるかもしれないという指摘がある。
ムルソーの運命は、彼自身の存在のおかげで、彼のものである。
彼は、すべての人と同様に、あらかじめ決められた究極の結論である死に拘束されている。
ムルソーは最後の告白で、死は究極の自由の喪失者であり、人がどのように存在するかを選択しても、最終的にはこの普遍的な真理には何の影響も与えないという結論に達する。
死は我々全員にゆっくりと忍び寄り、ムルソーにとって、間近に迫った死刑執行は、自由に対する運命の最終的な勝利を意味する。
運命は、アラブ人が殺害されるまでの場面で最も顕著に現れる。
レイモンがアラブ人を撃とうとしたとき、ムルソーは『あんなふうに冷酷に撃つのは卑怯な手口だ』と云い、彼を止める。
しかし、ムルソーは無意識のうちに、運命の一致を保つために、自分の運命の対象を守るために行動しているに過ぎないということができる。
ムルソーは自らアラブ人を殺すつもりはなく、引き金は『道を譲る』のやけど、彼は熟考の末、撃つとか撃たないとかは問題ではなく、どちらにしても結果は必然であると考える。
銃を撃った瞬間、彼は自分自身を人間の裁きに委ねるが、アラブ人と彼自身の死は常に避けられないものであり、彼はその形を決定しただけ。
『異邦人』では、太陽は常に抑圧的で、自由と正反対の存在であり、運命を象徴している。
葬式、浜辺、そしてムルソーの自由への権利が最終的に取り消される裁判と、小説の重要な場面で太陽が入り込んでくる。
太陽は、神ではなく生命の維持者であるが、同時に生命の分解者でもあり、やがてムルソーの生命も太陽に奪われることになる。
彼は殺人を犯す、太陽のために。
ムルソーの母の葬儀の明るい部屋のように、太陽は究極の真実である死を照らし、また、本物であるという意識がもたらす圧倒的な効果を表現している。
太陽は小説の重要な場面で繰り返し登場する。
殺人の場面では、太陽の光がアラブ人の頭の上でギロチンのように光り、アラブ人を見つめながら、ムルソーはこの太陽が母の葬儀で感じたのと同じ温かい感覚であることに気づく。
ムルソーはこの光景を見て、自分と日陰の間にアラブ人が立っていることを認識する。
この象徴的な隔たりを、太陽のまぶしさがムルソーの目を直撃し、銃の引き金が引かれたときに越えるのだが、太陽は彼が人生の不条理に目覚めることを象徴している。
葬列の中で、太陽は熱く、逃れられないもの。
ムルソーは、あまり速く動くと体調を崩すと警告されるが、暑さの中で長居しても同じ効果がある。
ムルソーは微妙なラインを歩くことを余儀なくされるが、常に太陽のなすがまま。


自覚を促す光の暴力は、不条理の実現による精神的ショックを暗示するが、読者は、真正の太陽は、真実に気づいた孤立した個人を選択的に照らしているのではないか、と考えざるを得ないのである。カミュは何よりもまずエッセイストであり、彼の小説は創作というよりも、拡張されたエッセイとして書かれている。アウトサイダー』の場合、カミュは、真正性とは理性を超えた抽象的な概念であり、説明よりも文学という媒体を通じて伝えることが最善であると考えたのである。しかし、この小説は、『アウトサイダー』の数ヵ月後に発表された解説エッセイ『シジフォスの神話』との関連で読むべきものであり、『アウトサイダー』の抽象的なビジョンと比較して、より構造的な不条理についての議論を読者に提供するものである。

この小説は抽象的な思考の訓練であり、何のメッセージも持たないが、その構成は素晴らしい。冒頭で結末が設定され、彼の人生が奪われていく中で、ムルソーに向かって容赦なく進んでいくのだ。ムルソーも読者も、手遅れになる前に、棺桶の釘の一つ一つの意味を理解することはない。

アルジェリアがまだフランスの植民地だった1920年代のアルジェを舞台にしたこの小説は、主に過去形で語られ、ムルソーが人生の不条理を受け入れ、真正性を受け入れるに至った行動についての考察と瞑想として描かれている。しかし、時折、現在時制に移行することで、行動の即時性とムルソーの意識の変遷が強調される。

多くの点で、この物語は過去を語る以上のものであり、再体験である。しかし同時に、語り手は小説の結末に至る重要な要素を引き出すことができる。したがって、出来事を記述するには、ある程度の後知恵、あるいは出来事からの距離が必要であると結論づけざるを得ないのである。過去形と現在形が混在する不思議な語り口は、内省的な姿勢と行動の即応性を同時に暗示している。

ムルソーにとって、この語りはカタルシスであり、描写された出来事を反芻することで、自分の中で意味づけし、ある種の秩序を作ろうとしているような感じがある。母の葬儀から物語を始めることで、ムルソーは暗黙のうちに、母の死が現在の苦境を引き起こした行為であると認識しているのだ。この不規則で原子的な文章は、主人公の人生の各瞬間に断絶した印象を与え、それぞれが別個の存在となり、過去や未来の自分とはつながっていないのだ。読者にはこの文体の選択について何の説明もなく、ムルソーの、時には奇妙な行動を支配する論理を提供しようともしていない。文章は単に恣意的な事実性を描いているに過ぎない。
この文体は、短くて鋭い文章を用い、それぞれが孤独な存在として存在し、時間の不連続性を強調したヘミングウェイの文体に非常によく似ている。
小説全体を通して一貫しているわけやないが、カミュはこの考えを自分のスタイルに当てはめている。
デカルトの瞬間のように、一つ一つの文章が独立しており、個々の瞬間が互いに滲み出ることはない。
それぞれの文章は、人生のように未来がなく、単に現在の瞬間の連続である。
現在形はこのことを強調し、物語がリレーされる未来の可能性を否定している。
一文一文がそれ自体で一つの形式をなしているため、それらが全体として成り立っているのか、『異邦人』は首尾一貫した小説と見なされるべきなのか、それともまったく別のものなのか、という疑問が湧くかもしれない。
マリリン・ガディス・ローズは、『ムルソーは自分の人生の出来事の重要性を認識していないかもしれないが、その中で何が重要であるかを認識しており、彼を信頼できる語り手にしている』と論じている。
構造的に、この小説は美しく構成されている。
物語は2つの部分に分かれている。
最初の部分でムルソーは、ある程度信じていた誠実さという倫理観が崩壊するのを目撃し、潜在意識レベルではなく、意識レベルで不条理を感じ始める。
物語の後半では、ムルソーは不条理という概念を完全に認識し、自分の人生を振り返る。彼は自分の人生と真正性を確認し、迫り来る死と向き合う。
同様に、『異邦人』は3つの死をめぐって展開する。
ムルソーの死、母親の死、そしてアラブ人の死である。
母の死もアラブの死も、ムルソー自身の死とセットになっており、3つともムルソーの存在に対する運命の侵食の度合いを表している。
判事の判決については、それはずっとそこにあったもんであり、彼はそれを公式にしたに過ぎない。
物語のバランスは完璧で、重要な出来事は本のちょうど半分のところで起こっており、この小説を書くための技巧の表れである。
物語は結末に向かってひたすら転がっていくように見える。
文章はまばらで、太陽と殺人に関するもの以外は、形容詞や説明的な文章はほとんどなく、すべてが機能的で、ありがたい芸術はない。
アラブの死の場面は、最も派手で、典型的な創作物である。
アラブ人とムルソーはともにキリストの象徴として用いられている。
アラブ人を殺す5発の銃声は、キリストを殺す5つの打撃(キリストをはりつけるのに使われた4本の釘と、彼の脇腹に突き刺さった槍)を暗示している。 
アラブ人の死によって、ムルソーは救いを見いだし、アラブ人は彼個人のキリストとなる。
人類とその罪がイエスの死の原因であり、その行為が救済の機会を提供するように、ムルソーもまた、真正性という形で救済を受けるためにアラブ人を殺さなければならないのである。
ムルソーの行為は、すべての人間にとって象徴的なものであり、一人ひとりが殺さなければならない義務はなく、ムルソーは私たちからその重荷を取り去ったのであり、したがって彼はこの小説の第二のキリスト像となるのである。
『異邦人』は、カミュの作り出す両義性、つまり彼の文章を包む奇妙で無形のオーラによって繁栄している。 
カフカとは異なり、カミュは物事の無秩序さや奇妙さに気安さを示し、それが読者にとって興味深い並置を生み出している。読者は常軌を逸した現実を突きつけられるが、登場人物は誰もそれを疑問に思わない。
ハーマン・メルヴィル作の『ビリー・バッド』は興味深い比較対象としてよく挙げられるけど、おそらくもっと比較しやすいのはヴォルテールの作品、特に彼の『キャンディード』とヴォルテール作『ザディグ』かな。
ムルソーは、キャンディードと同じようなキャラでありながら、異なるプリズムを通して見ることができる。
ムルソーの裁判は、ドストエフスキーの『罪と罰』と明らかに比較されるけど、ドストエフスキーが主人公を断罪する判決を認めるのに対し、カミュはムルソーの断罪を不服としている。。。
何を書いてんのかわからなくなったしこれにて。
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