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ラ・ジュテの青のレビュー・感想・評価

ラ・ジュテ(1962年製作の映画)
3.8
時間について考える時、①立脚点(意識をもつ主体)を常に現在に位置づけるか、それとも②立脚点(意識をもつ主体)の位置を時間軸上で自由に設定するかを想定することができる。
前者①の場合、意識は常に現在にあり、過去とは「現在からみた過去」であり、未来とは「現在からみた未来」であることになる。つまり、過去へ行くとか未来へ行くとは、現在に意識を置いたうえで過去や未来へ行くこととなる。
後者②の場合、過去・現在・未来という時間軸のどこにでも立脚することができる。意識が現在にあるとは限らない。過去にいることもあれば、未来にいることもある。ただ、この場合には、過去・現在・未来という時間軸を、その外側から眺めている視点も必要になる。なにせ「時が過ぎ去る」ということはない。
フツーの感覚からすると、時間に対する印象は前者①に近いと思う。だから、フツーの捕虜は、肉体は過去に行けても意識を現在に置いてきてしまう。ところが、核となる捕虜(主人公?)は、過去に異常に執着していたために、肉体も意識も過去へ行くことに成功したという。要は、この男からすれば、過去は「過ぎ去ったもの」でない。男にとって、過去と現在は同列に扱われる時間軸上の位置であり、男の意識が常に現在に縛られることはなかった。だから、過去へ行けた。
おそらく本作の過去とは、男が経験した過去のことだ。あの女性は男の母親だろう(追記: 女=母親説を考えていたのだが、Wikipediaを読む限り違うかも)。肉体も意識も過去へ行っているらしいので、男は幼少期の記憶をもとに過去を覗いているのではなく、幼少期そのものに介入していることになる。この時、幼少期の男(aとする)の意識に捕虜としての男(Aとする)の意識が侵入しているのであれば、ラストで捕虜の男Aが死んだ出来事は、幼少期の男aの意識に空港で男Aが死ぬ画を印象づけることになるのかもしれない(追記: 説明がやや苦しい。捕虜の男Aが過去の自分aの意識に侵入していることと、幼い自分aにとって捕虜である自分Aは客体であることが両立すると言えれば尚よい。あーそうか。あるいは、過去の男aと捕虜の男Aはもはや別人だが、お互いに整合的な記憶を持つ者同人と捉えればいいのか。男Aが過去へ行くことは、男の幼少期そのものに介入していることになるが、男aの意識には介入してはいない。ただ、そうだとすると、男aがなぜ男Aの死を印象的な出来事として覚えていたのかへの説明が弱くなる)。
過去は、男が経験した時間軸上の出来事なので、確かな存在的地位をもつ。単なる想像とは異なる。さて、問題は未来だ。男は現在(実験場)より未来を経験していない。というより、現在と過去を行き来することが、新たな未来となっている。いずれにせよ、自身の経験を越え出た未来を知ることはない。
それにも関わらず、男は未来へ行くことに成功する。それがなぜ可能なのかはよく分からないが(ここまでの半妄想的謎説明もイミフなのだが)、何か説明を与えるとしたら、「過去・現在・未来という時間軸を、その外側から眺める視点の獲得に成功したからだ」となるだろう。現在に縛られない意識であれば、過去へと同様に、未来へも行けるはずという論法。そして、ちゃんと未来は実在した。
未来が実在しなかったら、彼らはどうしていたのだろうか?それとも、時間軸を外側から眺める視点の獲得に成功した者は、未来を生み出すこと、実在させることも出来るのだろうか?

科学者達の目論見は、未来から新エネルギーを得ることだっけ?この設定は、SFでお馴染みの原因についての循環論法を生み出す。新エネルギーはどこで生じたのかを考察しようとすると、それが生じた時点を指定することができない。
追記: また、もし憧れの女性が母親でないのなら(無論、母親ではなさそうだが)、あの女性に惹かれた理由も上述したSF循環論法に嵌ることになる。①小さい頃に綺麗な女性に出会う、②大人になってもその女性を忘れられない、③過去に行って例の女性に出会う、④過去の子どもである自分(a)が捕虜の自分(A)の隣にいる女性を目撃する、④は①と重なる出来事である。
未来人が男を迎えにきた理由は分からなかった。

静止画で色々を説明しきるやり方は、想像の余地を上手く利用している。動画だとチープに映る小道具や装備は、静止画であれば動きという情報が少ないためにチープさがバレずに済む。
ごく稀に動画を入れれば、それだけでオシャレな、意味ありげな印象をもたせることもできるし。
青