青

ラン・ローラ・ランの青のレビュー・感想・評価

ラン・ローラ・ラン(1998年製作の映画)
4.0
たまたま目に入って鑑賞した。「試合後とは試合前のことだ」のような格言が表示されていたため、体育会系な終わりなき挑戦を題材にしているのかと思ったが、某哲学者による永劫回帰的な発想のもと、愛の理想に向かって何度でもトライするヤンキーのお話だった。
映像に対する音楽の貢献を痛感する映画だった。アップテンポの曲が常に挿入されているにも関わらず、騒々しさを感じることなく見終えることができた。まず、選曲がよいのだろう。繰り返しの1回目と2回目では、似た曲(というか同じ?)が映像に合わせて流れている。3回目では、アップテンポではあるものの1・2回目よりも静かな曲が流れている。「走る」という行為から連想される必死さや懸命さが音楽によって表現されていると同時に、その音楽が「ずっと走っている」という代わり映えしない映像に対する転換点を果たしており、観客心理を飽きさせないように働いている。観客心理を飽きさせないという点では、アニメーションの挿入や映像画質の変化も一役買っている。螺旋階段と犬の場面の表現として採用されたアニメーションは、繰り返しの始点直後に挿入されており、繰り返しが生じた直後に前回の繰り返しとの差異を認識させやすくする効果をもつ。パパと謎の女性(愛人?)との会話も、ザラザラした質感の映像となっており、視覚的な変化が印象付けられることによって、鑑賞者に前回の繰り返しとの差異を認識させやすくしている。いわば、アニメと映像画質の変化は、前回との微妙な差異を印づけている(差異に対して注意を促している)ともいえる。
役者がインタビューで語っていたように、本作の背後には哲学的なテーマがあるように思われる。だが、ポップコーンを片手に横目で観れてしまう不思議なライトさもある。例えば、ローラが一睨みするかどうかで、ローラの目線の先の女性の人生は180度方向が異なってしまう。初期値敏感性とか、バタフライエフェクトなどと呼称される現象があるように、ちょっとした変化が結果として大きな差異をもたらし、その変化は、絡み合う要素が多いほど予測できない。この偶然性や運と呼ばれるものを真剣に考えようとすると、人生そのものが哲学の思索に飲み込まれるくらいだ。だが、一方で、あらゆる可能性をブロマイド写真のようにパシャパシャと繰り出して見せる演出は、人生があたかも断片的にしか映す価値しかないもののように映り、それがむしろ背後にある重圧なテーマを緩和する方法に作用している。かっこいい。
ローラ達主人公がチンピラだという設定もいい。主人公やパートナーが大病を患ったり、戦地での究極的な選択のような重い決定を迫るものだったりしたら、哲学的な映画としてしか鑑賞できなくなるからだ。そもそもそのような重厚な設定でなければ人生や愛について想いを馳せる映画が撮れない、なんてことはない。日常の、ごくありふれた、どちらかといえば「理性」とか「思索」とは無縁な空気感が漂う環境にさえ、大事にしたい人生のテーマは詰まっている。ローラは状況をよくしようと画策するのだが、ローラの意図した以上の偶然的な要素によって、状況は好転していく。例えば、自動車にぶつかったことでパパに会えなかったことや、自転車の彼との会話が変化したことでホームレスの手に自転車が渡ったことなど。ローラには全てをコントロールする術はないのだが、それでもマニのために走らなければならないという使命がある。また、繰り返しが何度も起こることで、繰り返された内実同士の比較が可能となる。全ての選択肢のうちで最も良い選択肢を選ぼうとしても、どれがよい選択肢なのかは実際に繰り返しが起こらなければ分からない。ローラの使命があればどの選択肢でもよいといえるのか、それとも最善の帰結のために何度も繰り返して画策するべきなのかは、鑑賞者の好みや生き方次第の回答となるだろう。
いずれにせよ、ラストがハッピーエンドなのかどうかは分からない。歯車がかみ合ってなぜか事がうまく進んだように、歯車がかみ合って最悪な結末を迎えることもある。マニはホームレスに銃を渡してしまったし、ローラはカジノでの不可解な勝利を目撃されている。「試合後とは試合前のことだ」という格言を参考にすれば、本作のラストは新たな展開の幕開けだ。終わりにしたくないと願ったのはローラ自身なのだから、何が起ころうと、また走るのだろう。がんばれ。
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