語りの構造の映画。『最後の人』『サンライズ』も手がけているカール・マイヤーの脚本によるところも大きいだろう。画面に向かって観客に語りかける役者のショットにより突如としてメタ構造が立ち上がり驚く。前年の『最後の人』もメタ構造となる。メタ構造は狂言回しなども含め元々演劇にはある。観客の目の前でライブで演じられる演劇よりも映画のそれはさらに一層多い。また観客に語りかけてくる役者もまた役を演じている人であるというレイヤーも意識させる。本作は視点を意識させるメタ構造に加えて窃視的な見る/見られるが殊更に描かれてもいる。風刺画そのもののようなエミール・ヤニングスのタルチュフのほか西田敏行似の家政婦のアップの強さが下世話さをいや増している。
映画内映画「タルチュフ」の夫人も西田敏行似の家政婦も女性という理由で夫または主人に依存せざるを得ない。ハニートラップを仕掛ける夫人も老主人の財産を狙う家政婦も、失敗すればいまの生活を失う。しかし夫人には召使の女性がいることがとても大きい。タルチュフの正体を暴くために重要な役割を果たす召使からは雇用関係よりもシスターフッド的な協力が見てとれる。家政婦に協力者はいない。
宗教の描かれ方が逆転している(夫婦の営みも否定されて宗教は悪みたいな)のも面白いがこれはモリエールの原作もあるのかな。モリエールといえばコメディ・フランセーズだが個人的には受験のころ散々石膏デッサンをした思い出が強い。モリエール像は描きづらかった。