keith中村

のぼる小寺さんのkeith中村のレビュー・感想・評価

のぼる小寺さん(2020年製作の映画)
5.0
 外界からやってきた改革者によって共同体が活性化していくというのは、物語のテンプレートとしては非常にオーソドックスなもので、映画史に残るレベルのものだけピックアップしても「サウンド・オブ・ミュージック」「カッコーの巣の上で」「ショーシャンクの空に」「天使にラブ・ソングを…」「今を生きる」など、いくらでもある。
 
 本作における小寺さんは、もとから共同体にいた人ではあるけれど、彼女を周囲の人物が映画の冒頭で初めて認識・発見したかのような描き方は、限りなく「外界からやってきた改革者」に近いので、その意味で本作は上にあげた作品群と同じ物語類型に位置づけられるものであることは間違いない。
 
 それらの作品群で舞台となる刑務所や修道院や学校という「閉空間」は、とりもなおさず世界の縮図となっているわけだが、本作での学校という「閉空間」は世界の縮図というよりは、「抽象化された世界」「極度に純化された世界」として描かれている。
 本作から「桐島~」を想起する観客は私を含めて数多くいるだろうけれど、「桐島~」の学校が「現実世界の象徴化」だったのと本作は似ているようで、実は正反対のアプローチなのがとてもおもしろい。
 あ、ここで私が言う「純化」は単純化という意味だけでなく、「邪」が除去されたというニュアンスも含んでいます。「桐島~」にはリアルな「邪」があったもんね。

 加えておもしろいのは、本作では改革者たる小寺さんの内面がほとんど描かれないこと。
 それは「演出上の内面描写の排除」どころか「内面の欠如した人物の描写」の域に達している。
 
 「内面の欠如した人物」は、サイコパスな犯罪者を扱う物語に多いんだけれど、小寺さんはそうではなくて、「葛藤することのない、それ以上成長することのない完璧な人格」なので内面性が欠如しているわけです。
 もちろん、私が言うのは「クライマーとして完璧な小寺さん」というような表象的な人物ではない。彼女はクライマーとしての伸びしろはいくらでもある。
 じゃなく、「内面的にすでに完成された(ゆえに映画として描く意味や面白みのない・むしろ描かない方が効果的な)人格」としての小寺さんのことです。
 ボルダリングに失敗しても彼女は決して葛藤しない。ただ、自分の行動を冷静にフィードバックして「微調整」を繰り返すだけだ。
 
 「改革者による共同体の活性化」は最初に書いたようにいくらでもあるけれど、今ぱっと思い出そうとしても、この映画同様に、改革者(=「まれびと」=「神」)の内面描写がほとんどない映画は、「メリー・ポピンズ」と「暴力脱獄」くらいしか思い浮かばないのです。
 つまり、本作はその二本に並び立つ、「神と、神によって救済される信者たち」を描く傑作だと思うのです。
 
 もうちょっと褒めよう。
 その「神」が最後の最後にあたかもキリンレモンのCMの如くDown To Earthしてくるところは、観た瞬間は「ん~、そういう着地か(前の文節と続くとなんか駄洒落ぽいな、これ)」と微妙に感じたんだけど、こうやって言語化していく中で、勝手に納得できました。
 つまりこのエンディングは、「見られる」ことしかなかった神が、ようやく「見る」ことを覚えた瞬間に幕切れとなるわけだもんね。
 しかもその瞬間の二人の視線が180度反対というのも、面白い。
 多分黒味になるのがあと10秒遅ければ近藤くんも左右対称の形になって、二人のシルエットはKappaのロゴみたくなってる。
 Kappaのロゴは、OMNI=総て=世界を表しているらしいので、本作はそこに至るまで、なんとも周到じゃないですか?
 だからこそ、本作は「スクリーンのこっち側、我々観客のいる世界」にまで影響を与え。
 だからこそ、本作を見た我々は、「明日もガンバ!」と勇気を得て。
 だからこそ、本作は傑作なので。
 だからこそ、観るべきです。