keith中村

アオラレのkeith中村のレビュー・感想・評価

アオラレ(2020年製作の映画)
4.5
 6月1日、東京で久しぶりに劇場が開いた。
 いや、一部のミニシアターは動いてたんだけど、アップリンク渋谷が5月で閉館しちゃうなど、ちょっとどうするんだよ映画産業って状態になっていたので、大手のシネコンが開いてくれたのは喜ばしい限り。
 
 で、仕事終わりに観てきましたよ。4月下旬以来38日ぶりの劇場鑑賞。
 もうそれだけで満足なので、作品評価もちょっと色をつけちゃう。
 4,5月にまったく観られなかった去年ですら、1、2,3月だけで46本観てたのに、今年はこれでまだ18本目。
 今年は「劇場だけで年間100本」は絶対無理だなあ……。
 
 ま、ともかく、「アオラレ」です。
 本広克行監督で、安藤政信が主演! って、それは「サトラレ」だよ。
 なぁんてボケを考えたけど、やっぱり書くのはやめることにしましたですよ(←いや、書いてるやん!)。
 
 予告篇だけでどんな映画か丸わかりなんで、本篇を観ないとわからない細部を楽しむつもりで鑑賞しました。
 予告篇からも容易に理解できるのは、本作が「激突!」+「ヒッチャー」ってこと。
 
 つまりは、「ひたすら逃げるだけの映画」です。
 この類の古典中の古典は、「裸のジャングル(1966)」ですね。
 これ、超傑作ですよね! なんつってもラストが最高!
 
 で、その5年後がスピ師匠の出世作「激突!」。
 その2年後にも「ウェストワールド」があった。
 その次は、ちょっと飛んで1984年の「ターミネーター」かな。
 「ターミネーター」の凄いところは、実は「ウェストワールド」全力パクリ映画なんだけれど、全然それだけに見えない設定を持ってきたところ。しかも、その実に複雑な設定説明を、逃げる中でカイル・リースがサラ・コナーに語るという、ほぼセリフだけでやっちゃうんだけれど、「説明ゼリフ感」がとても希薄で、あの壮大で複雑な世界観が誰にでも自然と伝わってくるというシナリオの見事さでした。
 
 で、その翌年が「ヒッチャー」。
 追いかけてくるのがロイ・バッティですよ! これもやっぱ勝ち目なし。
 もう、「バッティ、バッティ、ロイ・バッティ♪ 殺しておやりよ、ロイ・バッティ♪ ニャー!」ですよ。
 
 わずかにここまで書いただけで、本日はすでに酔いが回ってるので、その途中に存在する「ひたすら逃げるだけの映画」を思い出したり調べたりする努力は放棄しちゃいますが、ずいぶん時代が飛んで、次は「アポカリプト(2006)」。
 これは、「裸のジャングル」のエピゴーネンではあるけれど、「裸のジャングル」とは違った意味で、やっぱラストが最高な作品でした。
 
 で、やっぱさらに10数年飛ばしちゃうけれど、本作「アオラレ」。
 原題は"Unhinged"。字義通りだと「蝶番がゆるんじゃった」って意味だけど、その通りに「基地の外の人」という単語。
 日本語でもかなり近い表現で、「箍の外れた人」と訳せますね。
 余談だけどさ、「蝶番」って最近は「チョウバン」なんて発音するんだよね。あ~、やだやだ!
 
 さてさて。
 今列挙した映画の共通点を考えましょうか。
 「追いかけてくる側」に着目すると、それが見えてくる。
「裸のジャングル」→アフリカの原住民
「激突!」→タンクローリー(そもそも人間かどうかも……)
「ウェストワールド」→ユル・ブリンナー=ロシア人俳優(もしくはアンドロイド)
「ターミネーター」→シュワちゃん=オーストリア人俳優(もしくは殺人マシン)
「ヒッチャー」→ルトガー・ハウアー=オランダ人俳優(もしくは作品違いだけどレプリカント)
「アポカリプト」→マヤの戦士(この作品だけは追っかけられるほうがアメリカ人じゃないけど)
「アオラレ」→ラッセル・クロウ=ニュージーランド人俳優(もしくは元筋肉ムキムキのローマ人)
 
 ね? 脅威になるのはすべて「非アメリカ人」なんですよ。
 アメリカの抱える不安が見事なまでに共通して表出してる。
 まあ、どこの国でもそうなんだけれど、やっぱガイジンって怖いんですわ。
 いわゆるゼノフォビアってやつね。
 アメリカみたいな多民族国家ですら、移民は怖い。っつーか、アメリカであればこそ、か。
 全部移民の国家のくせに、「メイフラワー号以来、会員番号100番までは正規メンバーです! あとはよそ者なんで差別します!」ってのがアメリカですよね?
 だから、「ちゃんとコミュニケートできないストレンジャーって怖っ!」ってピリピリしちゃう。
 
 その意味で本作が過去の類似作といちばん違うのは、ラッセル・クロウの起用。
 ニュージーランド人だけど、アメリカだってそうとは知らない人多いんじゃない? ラッセルさんがアメリカ人だと思ってる人多いんじゃない?
 だから、言葉は全然通じるんですよ。
 でも、全然相互理解できないの。
 これって、「言葉が通じないから怖い」より一段上の恐怖ですよね。
 「言葉は互いに理解できてるのに、その実全然理解し合えない」
 ある意味「ゼイリブ」にも近い。
 「『ぱっと見』は同じ人間なんだけれど、内面は全然違う」ってなるのね。
 
 それを激太りという役作りでもって体現したラッセル・クロウは素晴らしかった(←ほんとに役作りだったの?!)
 もう、ラッセル・クロウというよりは、「ラッセル車」なんですよ、「ラッセル車」。
 激太のラッセル車が「らっせーらー、らっせーらー!」と言いながら、ねぶた祭りのように突進してくるんですよ。
 ああ、怖っ!!
 
 で、結局殺し合いでしか解決しないのも、良くも悪くもこの手のアメリカ映画の定番でしたね。
 捨て台詞言いながらトドメ刺すの(笑)。
 まあ、最低だけれど、そんなの最高ですわ。
 「これが、あんたが言うところの礼儀正しい叩き方だわ!(Here's your fuckin' courtesy TAP!)」
 
 あと、最近の映画にしちゃ、すっと終わったところも好感が持てましたね。
 『もどり』っていうの? 「死んだと思ったら、最後にドーン!」がなかったところ。
 その代わりにあったエピソードが、「母ちゃん、ちょっと成長したじゃん!(=原語では"Good choise")」ってのもよかった。
 
 最後の最後に、また余談をひとつ。
 本作って、登場人物の多くが、かなり文字盤の大きい腕時計をしてるんですよね。
 で、それが結構でかでかと映る。
 「うわ~、そんな面倒で緻密な編集してるのか?!」とちょっと期待しました。
 どういうことかというと、映画内の時間経過は撮影の時間経過と全然違うでしょ。
 わずか3分のシーンに1日掛けちゃうこともある。
 となると、腕時計の時刻が映り込んじゃうなら、テイクを重ねるごとに時計の針を「映画内時間経過」に則って調整する必要があるのね。
 だから、ジャンルホラーなのに、そんな面倒なことをちゃんとやるんだ、と思って感心してたら、めちゃくちゃ杜撰でしたね。
 特に序盤のダイナーのシーン。カットごとに時計が10時10分~10時20分あたりをうろうろ進んだり戻ったりしちゃうの。
 もう最近ならCG使って修正できるだろうよ! とも思うんだけれど、だいぶ適当でしたね、結局は。
 
 はっ、違うか。も、もしやそれは、ラッセル・クロウの"Unhinged"な脳内での時間経過の混濁を視覚化して見せた、高度な演出なのか?!(←絶対違うと思う)

 らっせーらー。らっせーらー。らっせー、らっせー、らっせーらー!!
(↑レビューの締め方を見失ったので、勢いで誤魔化して終わってみた)

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一旦投稿して反芻したらもう一個気づいた。
母の名:レイチェル=ブレードランナー
だし、
息子の名:カイル=ターミネーター
ですね。作り手が意識してるかは知らんけど。