本作については、同じ三木監督の「陽だまりの彼女」のレビューで一度取り上げました。
そう。
ほぼ1年前、製作発表の時点で、私の最愛のSF小説が、世界初の映画化にも関わらず「ティーンエイジャー向け邦画」として製作されることが決まった件に対して、気持ちがざわついてしまったので、自分を落ち着かせるために「陽だまりの彼女」鑑賞後に書いたのでした。
いや~、待ったわ~。待ちました。
当初予定から、さらにコロナ禍で延期になったしね。
でもって、いよいよ公開になったので、駄作でも文句は言うまいと肚をくくって、それでも三木孝浩監督を信じて、本日行ってきましたですよ。
結論。
文句なしの満点。
なんだけれど、それが本作単体に対する評価では全然ないことは自分でも分かってるし、原作未読の人が面白いと感じるのかも全然想像がつかない。
ただ、「陽だまりの彼女」と同じ三木孝浩監督×菅野友恵脚本の布陣の本作、「いやいやきっちりやってくれた」と、原作大ファンの一人として感謝しています。
私が初めて原作小説を読んだのは今を去ること40年も前の中学のとき。ハヤカワの、まだ文庫にすらなってなかった頃の「ポケットブック」版。
奥付には「昭和41年7月25日再版印刷」とある。
私が産まれる2年前の日付。私が買ったんじゃない。親父の本棚にあったもの。
寝る前に読み始めたら止まんなくなって、空が明るくなるころに読み終えた記憶がある。翌日は遅刻せず、学校行けたのかな。憶えてない。
大興奮でした。SFという名のセンス・オブ・ワンダーに。
もちろん訳は福島正実大先生。
生涯で3,40回は読んでるかな。
2009年の小尾芙佐新訳も3回くらいは読んだ。でも、私は福島版がやっぱり大好きだな。
本作のクレジットにハインラインと並んで福島正実の名があるのは、本作序盤、山﨑賢人のナレーションで、十一の扉(いや、ピートのドアも勘定に入れれば十二だ)の「巡礼の旅」が語られるセリフが福島訳をベースにしているから。
あと、アメリカで出版されているBallantine Books版の原書ももちろん持っていて、これは10回くらいは読んだ。
(余談だけど、この表紙のリッキーとピートと「よくわかんない盆栽チックな植物」が最高ダサくって、本書は私の蔵書の中で最大級に表紙を見たくない書籍)
原書を最初に読んだときは、福島版と照らし合わせながら読んだんだけど、福島大先生の言葉のチョイスが絶妙であることに改めて震えた。
関係ないけど、保土ヶ谷にあるパスタとワインのお店「夏への扉」にも何度も足を運んだ。
いや、関係ないってことなくて、マスターの仁田さんが、この小説好きで命名したのがこの店なんだな。
店の窓のところには、ちゃんと原作の文庫本が窓の飾ってあります。小尾芙佐版刊行後は、そっちも飾ってある。
しばらく行けてないけど、マスターお元気ですか? コロナ落ち着いたら行きますね!
それから、キャラメル・ボックスの舞台もDVDだけど観た。ってかDVD持ってる。
さらにどうでもいい話だけど、2ちゃんのアスキーアート版も嬉しかった。あれも未完に終わったけど。
いかん。
まだ映画のことをまったく書いてないぞ、おれ。
こっからは、原作贔屓の欲目もあるけど、ちょっと本作のことを褒め倒していきますね。
まず、時代設定の変更。これは1956年に書かれて1970年と2000年を舞台にしていた原作にとっては必須事項です。
ただ、びっくりしたのは、ダン、あ、じゃなくって「宗ちゃん」が1968年産まれの設定だったこと。
「あ! 同い年じゃん!」
嬉しくなっちゃいました。
「宗ちゃん」と私が産まれた1968年は三億円事件があったんだけど、本作では犯人がすぐ逮捕された設定になってる。
そこから、現実と少し違う、現実より科学の進歩がやや早かった世界が語られてゆく。
いいんじゃないですか、この流れ。
これ、かの傑作「ウォッチメン」と同じ始まり方じゃないですか?!
で、第一幕の舞台が1995年3月なんですね。
宗ちゃん27歳。おれも27歳だった。
その前の年に神戸から大阪に引っ越したんで、震災をまともに喰らうことはなかったんだけど、ともかく震災の直後。
Windows95は日本では11月発売だったし、爆発的に流行したのは1996年だったから、まだこの3月はDOSかWindows3.1とか3.2でしたね。
IBM PCとかDOS-V互換機なんて、まだまだ普及してなくって、みんなNECのPC98を使ってた。
本作でもパソコンはほぼ全部98でしたね。よく探してきたな。そこも偉い。
第一幕は、そうやって設定の変更はあるものの、基本的にはかなり原作に忠実です。
ここで、さっき書いた福島版名訳の十一の扉(いや、ピートのドアも勘定に入れれば十二だ)の「巡礼の旅」が語られるんですが、もうその時点で自分でも意味不明なんだけれど、滅茶苦茶涙が出てきたのです。
で、ピートが扉を出ていこうとしたところにリッキー・ティッキー・タビーこと清原果耶ちゃんが登場する。
リッキーならぬ璃子ちゃんでしたね。
あ、そこも原作ファン接待でした。
つまりは、名前が「シラノ・ド・ベルジュラック」→「白野辯十郎」的に翻案されてましたよね。
ピートはさすがにピートのままだったけど、リッキーが璃子ちゃん。ベルが鈴さん。マイルズだから松下かな? 「マ」しかあってないけど。トゥイッチェエルが遠井、サットン夫妻が佐藤夫妻。
あとミューチュアル生命とかアラジン社とかは原作そのままのネーミング。
宗一郎だけはダニエル・ブーン・デイヴィスと全然似てないんだけれど、日本を代表するエンジニアなんで「宗一郎」なのかな?
本作でいちばん上手いと思ったのは第二幕で2025年になったときの人物整理の巧さと省略法。
文庫は何冊も買ってるけど、全部おススメとして人にあげちゃったんで、手元にないので文庫のページ数は今わかんないけど、手元にあるHPB版で240ページあるんですよ。仮にシナリオと同じく1ページ1分と仮定しても4時間かかる。
いや、HPB版は2段組みなんで、文庫だったらもっとページが多い。
だから、そのまんま映画にしたら4時間どころじゃない。
本作はそれを見事な省略でもって118分の、「シネコンでガンガン回せる尺」にしてる。
それは、未来パートで関わる様々な人を坪井社長とピートの二人に収斂してるから。
坪井社長、人柄よかったね。原作では広告塔に押し込めようとしてた結構打算的なキャラだったけど。
省略が多い本作で、ほぼ唯一「盛って」いたのが坪井さんね。
子供の頃「子供の科学」に宗ちゃんのサイン貰ってるエピソードが増えてた。
自慢じゃないけど、おれ、坪井くんの年齢ではすでに「子科」じゃなくもうちょっと大人向けの「初ラ」読んでたよ。あと、出版社違いだけど「ラ製」もね。
ええい。やっぱ話が逸れるわ。
何と言ってもピートですよ。猫じゃなくヒューマノイドのほうのね。
彼を配置することで、2025年パートの説明部分が随分省略できてる。
で、最大の改変がピートもろとも1995年に戻るところね。
サットンさん、じゃなかった。佐藤さん、察しがいいんだ。っていうか、役者としての原田泰造さん、いっつもそうだけど、本作も素晴らしかった。宗ちゃんが寝てる間に全部理解してる。
「ピート」に人間的人格を与えたのは、もしかしたらキャラメル・ボックス版を元にしてる?
筒井俊作さんと藤木直人さんはだいぶキャラは違ったけど。
それから、遠井博士ね。
BTTFのドクみたいって指摘もそこそこ多いみたいだけど、トウイッチェル博士が原作からして、あんな造形の面白キャラだからね。
もともと原書で読むと福島版以上にコミカルに読めるパートが多い作品なんだけれど、ダンがゾンビドラッグを打たれて、眼球が動かせない状態で、「ドリフのコントのようにベルとマイルズがピートに追われて右往左往する」くだりと、トウイッチェル先生を挑発する、「押すなよ押すなよ」ならぬ「押せないだろ? 押してみろよ!」のくだりが原作最大級のコントシーンだからね!
改変部分でいちばんうまいと思ったのは、ベルがリッキーを騙って連絡するところ。
ベル、じゃないや、鈴さんの台詞にもあったけど、あそこはそうだよね。ベルの名前で連絡とっても宗ちゃんは受けてくれないもんね。だからリッキー、違うってば、璃子ちゃんを名乗るところは上手かった。
とどのつまり、結局私は本作が省略したところも、好きすぎる原作の、ストーリーのすべてと登場人物の名称のすべてを記憶してるんで、省略された箇所も全部脳内で補完しながら観たので、映画単体では評価できないのに、満点以外ありえないんです。
だからこそ、原作を知らない人がどう思うか全然想像できないんだけれど、自分としては「三木孝浩監督×菅野友恵脚本」ではすいぶん省略はしたんだけど(そこも巧いと思ったし)、「原作レイプ」は全然していないので、かなり好きな映画になりましたよ。
あ〜、でも。ミスチル以外にも山下達郎のあの曲は使って欲しかったかな〜。リッキー・ティッキー!
最後に福島さんが原作の巻末に書いた「『夏への扉』礼賛」と、福島訳最大の名訳ポイントになぞらえて本作を称揚しますね。
「とにかく、この映画を観おわって劇場を出、ふと思い返したら、この映画に、一台の文化女中器も、窓拭きウィリィも、万能フランクも、やたらとホタテを勧めるウェイターも、レナード・ヴィンチェントも出てないことが、ひどく奇妙に思われ、わずかにあったNEC PC9801が、なんともはやぶさいくなものに見えて、しかたがなかった。
(それでも)三木孝浩監督の映画、数あるなかに、総合点のいちばん高くつけられる作品はといわれれたら、ぼくは、今のところ、ためらうことなしにこの作品を推すだろう。けだし、青春映画の傑作とは、『映画』の世界に観客をひきずりこんで『映画』の世界の空気に馴れ親しませ、牢固としてぬきがたいこの世の常識主義に、一撃をくわえるものだろうからである」
そしてもちろん、ぼくはこの映画の肩を持つ。