海

セブンの海のネタバレレビュー・内容・結末

セブン(1995年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

人殺しは怖いし、虐待も絶望も怖い。だけどそれらを前にしても尚、無関心を装う、あるいは直ぐに忘れて笑っていられる、そういった人達の方がよほど怖いじゃないかと、情報をただ受け取るだけでいい者たちの安定した精神に憤り、立ち向かい闘うという忠誠を理不尽にも望んでしまうことが無いだろうか。私には、何度許そうとしてもどうしても許せない悪が、この世に幾つかある。それは、悪そのものでもあるし、それに付随する、例えば匿名掲示板の動物虐待スレッド(生き物苦手板という名で知られている)で今この時も語られているであろう人間が動物を虐待する記録を残す媒体の管理者や、テレビで放映される児童虐待や性的虐待のニュースを恐れる人の影で貪って楽しんだり手口を模倣する人達、SNSで流れてくる特定の人や生き物(子供や老人、男や女、性的少数者や犬や猫)を苦手だとか嫌いだとか書き出して同意を求めるような投稿と特徴を悪意持って誇張してネタにしたような作品達であり、そして自分も含まれるだろうTPOを弁えて「見て見ぬ振りができる人」「笑って流せる人」であり、それを見つけるたび悲しいとかを通り越して物凄い怒りに囚われてどうしようもなくなる。激しい負の感情でいっぱいになって、知らないうちに腕や背中や指を赤くなって時には血が出るまで引っ掻いてしまう癖が付いてしまったことがあって、だから掲示板について辿ることを辞め、テレビを観ることも無くなったし、InstagramもTwitterもほとんどのSNSから離れた。劇中、デビッドが「ジョン・ドウと二人きりになったとしても暴行はしない」と言ったことに対しジョンは「あとが怖いからしないだけだ」と返す。この台詞に本作の全てが込められているような気がした。悪魔を知らない人間がどこに居ただろうか。トレーシーが、この場所が嫌いだと漏らすシーン。サマセットが、無関心には懲り懲りだと話しながらも実際には他者に物凄く寛容な人であり、更に重たいと勘づいていた事件からしきりに降りようとしていた矛盾。デビッドが犬を何匹も飼っているのも引っかかり、逆らう人間にはすぐ手が出てしまう彼の性質とわざと対極的に描写しているように思える(犬を服従の象徴として)。彼等には特定のもの・状況に対する強い怒りがあることはどの場面からも想像することは容易いし、必然的にその負のエネルギーを行動に移したいという欲望もあるはずだ。ただ、それを悪だと認識しながら天秤にかけた時に違う方法を選ぶという理性的なことが、今はまだ出来ているだけで、そういう余裕が残っていて、世界への希望が絶たれていないだけのことだった。「誰だって自分のような悪魔に成り得る」ジョン・ドウの車内での発言は私にはそう聞こえた。『セブン』、この傑作と呼べる映画を初めて観たのはまだ小学生の時だったけれど、その時一番恐ろしく印象に残っていた結末の残酷さよりも、今は自分がサマセットに抱いていた親近感の方がずっと重要に感じられた。彼の中にも悪魔は居る、恐らく他の誰よりも長い間悪魔がそこに居座っている。彼にはきっとその悪魔が視えているだろう、はっきりと、その顔の細部まで視ることができるだろう。それでもサマセットが恐ろしくなく、むしろデビッドやトレーシーや、この世界全体をも救う、救える唯一の人物のように期待を抱いてしまうのは、どんな怒りや苦しみの中にあったとしても自分の手で人を殺めるだけの冷たさも熱さも、今はもう彼の中に備わっていないからなんだろう。愛するべきものも憎むべきものも多過ぎる。冷たく、かたくなって、熱く脈打つ感情を切り落としてしまえれば楽なんだろうが、それ以上の悪はどこにもない。人間を、それが創り出す社会を、美しいと許し続けるだけの希望が、私達にはまだ残されているのだろうか。
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