Maririn

ドライブ・マイ・カーのMaririnのネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

三浦透子さんがとても良かった。
家福とみさきが車でタバコを吸うとき、車の上の窓から2人の手が出る絵がとても良かった。

「このテキストにはそういうことを起こす力がある」
この映画を見たとき、私が心に感じたのは、自分もそういうテキストに出会って生きていたい、テキストに自分を差し出して生きていたいということだ。
自分を差し出した時、そこで何かが起こる。
その言葉にできない"何か"に人は惹きつけられる。
その生み出された、起こってしまった"何か"こそが、クリエイティブと言えるのではないかと思った。

「私が殺した」
家福が音を、みさきは母を、高槻は男を、ウナギの女はもう1人の空き巣を、それぞれ「私が殺した」と認めて欲しがっていた。
同様に音は浮気をした自分を認めて欲しがっていた。
自分の罪が、妄想ではないことを、確かめたい。
自分の"しるし"を、確かめたい。
防犯カメラが付けられたと言う小さな変化も、行ってらっしゃいの後に手を振らない家福の小さな変化も、実行犯は気づいているのだ。
それは自己顕示欲の現れなのか、はたまた自己満足なのか。

「その時がきたら大人しく死んで行きましょう」
人の死はあくまでも向こうからやってくるものであるということは、ラストの舞台の手話のシーンで何度も描かれている。皆、自分が殺した、と思いたがるのはなぜだろう。死は向こうからやってくるのに。

私が好きなのは、棒読みの朗読の効果。
最初はなんだこれ、聴いていて気持ち悪いと思ったけれど、この棒読みが、意図的であると知ると、舞台上の抑揚のあるセリフや手話や、みさきの感情を表に出さない話し方が、より一層色づき始める。
観ている側も想像力を鍛えられているような気分になるという効果を感じた。

「感情を抜いて、ゆっくり、はっきりとただ読むだけ」
これは、意外と難しい。
それはテキストの問いを正しく受け止め、向き合い応える時(自分を差し出すとき)のための練習であり、テキストに対して自分をコントロールするための練習でもあると思った。

家福を心から愛する音と、複数の男と寝る音は、一見矛盾しているようだけれど、どちらも真に音である。
みさきを殴る母と、みさきの友達のよく泣く8歳のさちちゃんも、どちらも母である。
母を失うことは、さちを失うこと。
男と寝る音を失うことは、自分を心から愛してくれる音を失うこと。
家福も、みさきも、傷つくことを恐れているうちに大切な人を失ってしまったのだろうか。
正しく傷つくことが、まるごとひっくるめて愛するために必要なプロセスなんだと思う。

「自分の心と正直に折り合いをつける」
相手の全て知ろうとしたり、相手をきっかけに自分を動かすのではなく、自分の心と向き合い、自分の心を素直に受け止める。
たくさん悲しみ、傷ついたとしても、向き合い、受け止める。
そして、死んだら、神様に憐れんでもらう。
その時がきたらゆっくりやすめばいい。
だから今生きている限りは自分と向き合う、そのしんどいけど大切なことを大の大人が舞台の上で一生懸命やる姿は、何か考えさせられるものがあるはずです。
Maririn

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