あやさん

ドライブ・マイ・カーのあやさんのネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

なんて誤解のない作品なんだ………。
びびる、すべての言葉が簡潔でノーフリル、登場人物同士にすとんと刺さっている。

"チェーホフのテキストに自分を引きずり出される"、私はチェーホフを読んだことはないけど、なにか素晴らしくて鋭い文章に触れて、その上それを声に出さなければならないとしたら、そりゃあ否応なしに自分のなまの部分が引きずり出されるだろうと思う。
同じように誤解のない嘘のないシンプルな人間、自分にしっくりハマる人間と話すと人の本性というのは簡単にその場に出てきてしまうんだろう。

家福さんにとってワタリはチャームのようなお守りのような、感じがした途中から。濾過装置のような右手に握りしめていれば大丈夫なような、現実に相対できるというような。
もしかして娘ちゃんが生きていれば、23歳の彼女がいれば、音から目を背けずにいられたのかもしれない、なんていうのは、結果論だけど。娘が亡くならなければ音はそんなふうにはならなかったので、これが破綻しているにしても。人の死は不可逆だ。物事を決定的に打ちのめすように変えてしまう。

ワタリの家の前での家福さんの独白は、「君の名前で僕を呼んで」のお父さんからエリオへの言葉を、ひいては「グッド・ウィル・ハンティング」の教授の言葉を、思い出させた(「肩を抱いて君のせいじゃないと言いたい」というセリフも教授がしたそのままだ)。
しかし彼は「君の(僕の)せいじゃない」とは言わなかった。「僕たちが殺した」と言った。自分たちのせいだと言った。それは、あまりにも自分自身とワタリのことを重ねすぎているけど、でも、愛をまるまま包含した結論だと思う。
愛している妻から目を逸らした自分が、自分が、自分が殺した。他の誰でもない、誰のせいにだってしたくない、愛しているから。
ヤマガに恋した女子高生と同じだ。他の誰かのせいにされたら、それが罪でも悪でもどれだけのマイナスでも、耐えられはしないのだ。
彼の独白におけるワタリの役割はしかしお父さんでもエリオでも、教授でもウィルハンティングでもなかった。彼女は最初からずっと真実だけを知っていた。やっぱりなにか呪物のようなお守りのような存在だ。

タカツキは自分を空っぽだと言った。家福さんはそれを肯定した。「社会不適合だけど役者としてはいい」と。なにかを表現するってことはたぶん必ずしも生み出すことから始めなくてもいい。
だってタカツキだからあれだけ、音の物語を語ることができたのだ。音の物語がタカツキの、空洞を通り抜けた、広島の平和の軸線をその中に通すゴミ処理場のような空洞。そこを通ることに意味がない、わけがない。
同じようにワーニャの役を一度タカツキが演じた、役が彼の空洞を通り抜けたことにだって意味があった。
しかぁし衝動的なタカツキの、「言葉が通じないからセックスで分かり合う」やり方、耳が痛い。色んな経過を無視して無理やり繋がった気持ちになる、彼のオーディションでの演技のように、力強くて説得力のあるような気のするホップとジャンプ。結局彼は手順無視のコミュニケーションにより、他人とセックスや暴力で繋がるという乱暴さにより身を滅ぼした。
対話なしには人と繋がることはできない。言葉が伝わらないなら、翻訳しなければ。

私たちには常に翻訳の役目がある。
日本語から英語、手話から日本語、日本語から日本語。
私の言葉とあなたの言葉が違うとき、というかほとんどの場合は違うのだから、翻訳は不可欠だ。
そしてこの映画のなかで使われたのは翻訳による誤解のない言葉たち。シンプルで感情のこもりすぎないクリアな言葉たちだった。
なんてわかりやすい。わかりやすいこととすべてを説明することってたまに混同されることが創作物のなかではあると思うんやけど、そういうイライラする無駄な頭の悪い説明のいっさいないわかりやすさ。かんぺきに簡潔。

私たちは私たちの車を自分で運転する必要がある。
自分の身体で車を運転するという移動手段を使うときだけ、私たちは自分自身で長距離移動できる。
その距離が必要なときがある。私たちは常になにかを考えている必要がある。


2024.2.9 一夜明けあらためて
ワタリの側から北海道への大旅行を考えてみると、なんだか少し大人に翻弄された感が拭えない気もしてきた。
望みもしない帰郷。まあ、いいタイミングだったと言えば言えるだろうが。
「君の故郷を見せてもらってもいいか」的な許可取りはあったし、ワタリは快諾したのだけれども。
そういった面で、女の「流れに沿う」ような考え方による順応みたいのはあったのかな。
原作を読み始めて、思ったより男女の違いを引き立てて書かれてあったから思った。
あやさん

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