Oto

彼女のOtoのレビュー・感想・評価

彼女(2021年製作の映画)
3.0
好きが発展して破滅するレイにも、可哀想が魅力で人に迷惑をかけるどうしようもない七恵にも、共感できる魅力があるし、真木よう子の「さよなら」も、夫を止める鈴木杏もさすがの芝居で記憶に残るし、先のない逃避行サスペンスの儚さは胸を打つけど…。
映画においてやらない方がいいと思っていることがいくつもあったので、自分に生かすためにメモ…。

①人物が自分の本心や経緯を説明する
人はそんなに都合よく本当のことを言わないし、簡単には成長しない。不器用で素直じゃないなりに、人を思いやるところに感動があるし、本音と建前、内心と外面のギャップを映せるのが映像だと思う。わたしのことまだ好き?とか、処女を失いましたとか、物語を盛り上げるために、その場面の気持ちを想像したら言わないであろうことを言わせてしまってると感じた。
漫画を映像化するときにありがちだと思うけど、映画というメディアは特に嘘を許容しづらいから、お互いを「あんた」と呼び合って、高校生みたいなノリで腐しあうのも関係性が見えないし、お互いが寄り添いあって号泣するのとか、極限状態だとしても生きた人物に見えない。せっかく魅力的な設定なんだから、そこにある本当の感情をすくいとれば人物ももっと魅力的に見えたと思う。
原作読んでみたら殺しのシーンがなくて、血塗れのシャワーシーンで初めて気づく描写があったりして、そっちの方がずっといいし、改悪と思わざるを得ない。

②引き絵に爽やかな音楽を当てたオシャカラ映像
音楽の「シーンの感情を一意的に決めてしまう」という危険性。せっかく複雑な感情が渦巻いているなかで、オシャレなジャズかけてそのすべてを浄化してしまうの本当にもったいない…。そこでノラジョーンズかける?みたいな「対位法」的な意外性を狙ってるにしても、だったらドライブを引き絵で撮るなんてことはやらずに、血まみれのシーンが続くはず。チェリーもいいけど引っ張るほどじゃないよなぁとか。
最近色んな映像を観て確信に近い信念としてあるのが「おしゃれは逃れ」ということで、何かをおしゃれって評するときって、具体的に褒められる斬新さや面白さがないときが多い。どこかで観たことあるようなテクニックを繋いで、引っかかりなくみやすく作られたコンテンツを「オシャカラ映像」と名付けた人がいてすごく納得したけど、そんなもので心を動かしたり世界に残るものが生まれると思えない。エヴァ、OK GO、せやろがいおじさん、ポカリ…新しい映像の共通点はいつだって、おしゃれよりも違和感。
入江監督が言ってた、「金がなければ時間を使え。時間がなければ頭を使え。」って言うのもこれに近いと思うのだけど、その解がヌードや暴力ってのは寂しい。。

③観る人の感情を一元的に決める撮影演出
冒頭の付け足された手ブレ、必然性を疑うほどの露出(レズと男性のSEXやトイレ)、どれも「こういう感情でみてください」っていう演出をしてしまっていて余白がないので、「男性的視点」という批判が多いのももっともだと感じる。
舞台とは違うのですべてをFIXで最低限の小道具で撮ってほしいというようなことは全く思っていないし、作家に特に意図がないままイメージのようなものを羅列として「これはアートです」とか言い張るコンセプトの欠けた映像とかすごく苦手だけど、かと言って観客の感情を決めてしまう映画であるなら作品を公開する意味ってなんなんだろう、プロパガンダとなにが違うんだろうと思ってしまう。
体当たりの芝居もインティマシーコーディネーターによってキャストのストレスが軽減されたことも素晴らしいことだと思うけれど、見せ場を作るための濡れ場だと感じる部分が多くて、観客(特に当事者)の感情のケアはあまりできてないよねと思う。

④作品のテーマを人物に語らせる
テーマ自体はすごく面白い。だから別荘のシーンは印象に残ったし、「その人のためなら人を殺せるか?」「同性愛に生まれてよかったと思えるか?」とか、当人たちが満足してる状況に第三者が介入すべきかとかも重要な題材だと思うけど、さすがにテーマを口にしすぎだと思った。今泉さんと岨手さんが対談で「テーマを言わないと伝わらない場合は、一番言っている感が出ない人に、引き絵でさりげなく言ってもらう」って言ってたけど、迫真の芝居のアップで言われてしまうと逆に思考が停止してしまう。
アデルより先に進んだ映画かと言われたらそうは思えないし、「女性同士の逃避行モノ」を超えて新しい表現の試みがあるかと言われると疑わしいし、テーマに関しては原作の手柄だし、モヤモヤの残る作品だった。学生時代の回想も少しは身体的特徴を残してあげたほうが良かったんじゃないかと思う。
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