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アリスとテレスのまぼろし工場のikustatinoのレビュー・感想・評価

3.9

『アリスとテレスのまぼろし工場』


ー岡田麿里作品の個性ー

前作の『さよならの朝に約束の花をかざろう』で脚本に加えて監督をするようになって以来、岡田麿里作品のレイヤーは一段変わったように思う。
過去のトラウマを作品に昇華することで少年少女のイニシエーションを描いてきた氏。
一昔前であれば軟弱者と一蹴されてしまいそうなか弱さの告白が、成長とは無縁の国に生きる多くの若者の心を掴み、彼女の告白は図らずも時代の声となった。

人気作『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』を含むいわゆる秩父三部作を経て監督となった岡田麿里。
さぞ大勢にとって共感性の高い青春群像劇を見せてくれるのだろうと思っていたが、この5年間で提示された作品の主張はまったくそういった類のものでは無かった。
自身の過去と向き合い作品を紡いできた彼女が自己探求の末に辿り着いたテーマ、それは
意外に思う反面当然の帰結とも感じるものだった。

"女の一生"

これが凄くセンシティブな言葉であるという自覚はあるので慎重に記述しようと思う。

まず女性目線で女性を描く事自体は珍しいことではないのだけれど、オリジナルアニメ作品であることがとてもユニークだと思っていて、さらに自身の半生を丸ごとアニメ作品に投影させられる女性監督という意味では彼女は前人未到の境地に立っていると思う。

監督が描く女の一生とはまずもって男達が都合良く描いてきたヒロイン象ではないし、女流作家やカリスマシンガー達の描く真っ直ぐ堂々と自分を生きる最先端の女性像ともまた違う姿だった。
氏の描く作品は社会が"あるべき姿"として照らし出してこなかった女性達の等身大の姿であり、同じような人生を送ってきた人達の為のニッチな作品である。
高い共感性の的を小さく小さく絞り、自分の言葉でしか綴れない物語を描く。
そうすることで氏は唯一無二の個性を手にしていると言える。


ー共感性の功罪ー

岡田麿里という人の個性は自身の中の光も闇も120%出し切る事だと思っていて、包み隠すことのない人間の浅ましさや欲深さ、おおよそ格好のつかない欲望まで全部出し切って作品に投影させてしまう。
その事が観る側の拒否感に繋がったり、一部のファンからネタとして消費されてしまうのは性質上しかたのない部分であるとは思う。

ただしこの発露は人間の本性を暴くといった類の為のものではなくて、理路整然と飾った体裁では言葉にできない自身の真の気持ち、魂の慟哭を内側から引きずり出す行為であるという事は作品を観れば明らかで、毎回物議を醸す露悪性が賛否の分かれ目となったとしても、それはひとえに高い共感性の功罪であると言える。


ー僕の中の心音ー

『アリスとテレスのまぼろし工場』を評するうえで中島みゆきの主題歌以上に的確で雄弁なものもないので、ただ歌詞を読めば他にレビュー要らずな感はいなめないのだが、映画の舞台である1991年の世相の空気感を知っている者の一人としては、映画内の幻の世界には特別な思いがある。

あの頃僕らはまだ震災も津波も未知のウイルスも知らなかった。
社会はまだこの国が暗く長いトンネルの中に突入しているとはまだ知らず、成功は目立ったり序列を乱す事なく上手く立ち回るものに与えられると信じられていた。
それが共同幻想に過ぎないと気がついた時には社会の衰退は取り返しのつかない事になっていて、追い打ちをかける悲劇が次々と巻き起こったのが今日までの歴史である。
それゆえ映画の幻工場の世界が安らぎの牢獄である事は実感として非常に理解できる。


ー未来へ、君だけでゆけー

90年代に陰気な思春期を過ごした岡田麿里にとってあの時代はいまだに心を囚われた心の傷の源泉であろう。
過去に囚われながら今を見つめ、母親のような目線で苦難の時代を生きる若者達へ剥き出しのエールを送るのが『アリスとテレスのまぼろし工場』であり、彼女の現在地である。

「未来へ、君だけでゆけ」この言葉は相手を突き放す意味もあるが、自分を顧みる事なく行きなさいという優しさの言葉でもある。
本作が恋をエネルゲイアと定義して物語の推進力としている事も、恋焦がれる情動が野生的で不恰好な反面、未来を切り開くエネルギーとよく似たところにある情熱であるからだろう。

傷ついて、傷ついて、傷ついて、魂のひだを固く逞しくする以外に生きるという所作の都合の良い近道はない。
これからの岡田麿里作品にさらに期待したいと思うと同時に、彼女が自身の心の傷を昇華していく過程を見ることで、自分が生きやすくなるヒントを得られる気がしている。
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