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デューン 砂の惑星PART2のAnima48のレビュー・感想・評価

デューン 砂の惑星PART2(2024年製作の映画)
4.2
鼻水って殆ど水分らしい。鼻炎に悩んでる身からするとアラキスに花粉が飛んでいない事を祈ってしまう。

まだ幼い日、図書館に行くと奇妙な題名の本が並んでいた、片仮名の題名は“クトウルー”であったり“エマ”だったり、それらの中には“デューン”もあった。どんな話なのか興味が湧いたのが前作、PART1だって知らなかった。で、ポール達との別れは突然に訪れてあれから気になっていたのが本作。

無機的かつ有機的な形をしたマシンや服。不気味と洗練、装飾と実用の境を行き来したデザイン、それは音楽も同様でナショナルジオグラフイックを眺めている様にアナキスの先住民フレメンの文化・民俗が紹介されて、前作からもっと環境破壊や資源の争奪、民族、宗教の分野に渡ってあの星の在り方を目で見て教えてくれて、それは現実の世界を何処か思い起こされもする。独裁的で際限のない欲に満ちた勢力とより民主的で正しくありたいと思い込んでいる勢力との間で資源が争奪され、搾取されている。大義と宗教の力が追加されて戦乱へとつながる様子は何かのシミュレーションの様だった。

とはいえゴジラミミズを駆って砂漠を疾走するシーンは理屈抜きで興奮する。えー、あれから降りるにはどうしたらいいですか?送り迎えに使うにも「近くのコンビニまで送ってくよ」って訳にもいかないし。
 
前作の砂漠は夏ミカンのように黄色いイメージだけど今回は赤褐色と黄土色の混じったオレンジ色に見える。水本位制のようなフレメンの宗教社会がそこにあって、資源を搾取され現状から救いを待ち望む。水の一滴は血の一滴以上に重く受け取られる想いの切実さ、多分あの星にスギやブタクサが生えてたら悪魔の植物と恐れられ伐採されちゃうだろう。反対に黒の太陽によって色彩が無いハルコンネンの星では花火ですらも墨汁の飛沫のように見えてしまう。あの星を支配する社会常識は残忍さで、日常的期に殺戮や飽く事なき権力の争奪戦が行われている。怪物のような巨体の男爵や社会病気質のサディスティックな甥っ子ラウタがいて、闘技場で奴隷を虐殺している。ビジュアルでそれぞれの社会を見せてくれて直感的にその社会の在り方を感じさせてくれる。

間違いなくシャラメの映画だった一作目は可憐さや神経質な未知への不安が心に残っていた。今回はポールが成長し、誇りや責任感、血統について目覚めていくにつれて顔つきが険しくなり、救世主の幻視に疲れや憂いを帯びていき、どんどん破壊的な暗い方向へ歩んでいくように境遇が変化していく、シャラメの表現力はすごいと思う。清濁併せ呑むと言えば聞こえは良いけどその境地に至る道のりという一年かけてドラマが描くような変化を2時間半ほどで見せてくれる。大画面でシャラメの端正な顔をしげしげと眺めるのはシンプルに悦び、アンニュイな表情からふとこちらに投げかける上目遣いとか。前作までの少し未成熟な感じから運命を躊躇いながら引き受けていく大人へと次のステップに踏み出したようにも感じた。付け加えて、体型がすらっとしていてお揃いのスーツを着ていても集団の中でも彼だってすぐわかる。ポールがフレメンに受けいれられていく様子は『アバター』や『ダンス・ウィズ・ウルブズ』でも触れた流れだけど、自分の復讐や復権の為にフレメンの宿命を利用するかどうなのかという点で揺れていく。

崇拝される聖母となった母は所属元の教団後継者を生み出そうとする、フレメン社会への誘い役のスティルガーはポールを待ち望んでいた預言者と考える。そんな人達に振り回され続けるポールが遂げる変貌はまるで大河ドラマを見ているかのようにゆったりとした感触。Part1が大河ドラマスタート直後で子役が演じる主人公の幼年期のように思えてくる。色々なエピソードが入っているけれどヒーロームービーのように詰め込んだという印象はない。

俳優が一人一人がこの作品の雰囲気に沿って演技をしていて、まるでスパイスが舞う風のうねりが集まって嵐になるように機能していた。それ以外の人たちもどんどん人間味が薄れていき、神話じみた英雄のような貌になってくる。その中でもそれぞれの役割を踏まえた演じ分けは愉しい。特にアニャ•テイラー•ジョイ、フローレンス•ビュー、レア•ゼドゥは時間は限られるけれど存在感があった。でもそれは、そんな立場でもない客席からすると驚きを伴う。その部分はチャニが担ってくれる、彼女の素直な感情は、いろんな策略に対して納得のいく反応のように思えて、神話的ともいえるストーリーに血の通った生生しさをくれた気がする。終盤のあの表情は哀しくて美しかった。今回はゼンデーヤの映画でもあったのかな?

歴史の表層に現れてくるのは男性達の引き起すイベントで例えば宣誓や開戦・対決なのだけど、それにモチベーションやおぜん立てを与えるのは女性。フレメン社会で宗教的指導者に就いた母は権謀術数の場面とか力強さや逞しさを増している。ポールの足乗りを後押しするけれど、それは不安を煽って狂信で大衆を焚きつけるという歪んで邪ともいえる方法。彼女の変貌•覚醒をレベッカファーガソンが丹念に見せてくれる。

前作で単純な親子以上の距離感で苦難を乗り越えていた母子にも隔たりや行き違いが生まれてくる。言ってみれば砂漠の星の動乱の推移がポールの親離れ、もしくは母の子離れの様にも見えた。あの母子はフレメンを導いていくだけでなく一旦解体して乗っ取りもする。そんな危うさを眺め続けていたけれど実際の英雄譚ってそんなものかもしれない。

新事実に圧倒され続けていたけれど、この話はきちんと終わるんだろうかと途中で残り時間を気にするようになってしまった。その先にあるものはフィナーレというよりも、ひとつの章の終わりでまたその次を待ち続ける日が始まる。確か図書館の本棚にはデ・ューンというタイトルのシリーズが何冊も並んでいたし、PARTいくつまで行くんだろう?
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